
『伊勢物語』
"むかしおとこ......"で各段が始まる『伊勢物語』は、平安時代に書かれた物語です。
その"おとこ"が誰とは特定されていませんが、百二十五段ある物語のうちの多くが阿保親王の五子で、在原行平(ありわらのゆきひら)の弟、美男子で恋多き在原業平(ありわらのなりひら)がモデルだといわれています。業平といえば≪六歌仙≫のひとり。その業平を主人公にイメージしているだけあって、『伊勢物語』も段ごとに和歌がちりばめられており、貴族たちに歌の手本としても愛されてきました。
江戸時代になるまでは本といえば写本。特定の人しか目にすることはできない贅沢品でしたが、江戸時代に入ると印刷技術が発達し、版木を使った版本が作られるようになりました。この版本の出現で、貴族階級の教養であった古典『源氏物語』『徒然草』などが一挙に町衆の間にも普及しました。
とりわけ人気を博してベストセラーとなったのが『伊勢物語』でした。
本阿弥光悦が嵯峨の豪商角倉素庵の協力を得て慶長から元和年間にかけて出版した≪嵯峨本≫といわれる本は、半分以上が絵で占められた"絵本"のような装訂で意匠を凝らしたものでした。人々は初めてみる王朝貴族の華やかな暮らしに心躍らせたことでしょう。
≪嵯峨本・伊勢物語≫以降も、『伊勢物語』は百種類以上の版本が出版され続けましたが、その多くに≪嵯峨本≫を踏襲した挿絵がつけられていました。またその挿絵は、画家たちの意欲をも掻き立て、多くの『伊勢物語』を題材にした芸術作品が生まれました。琳派の俵屋宗達らが≪嵯峨本≫の構図に則ったと思われる色紙や屏風、工芸品を数多く制作しています。
これらの版本や美術品を通じて、江戸の人々は、 "富士山を見ながら駒(こま)を進める貴公子"の図柄を見れば「東下り(業平の都落ち)」、"幾重にも折れ曲がった橋の袂に車座になっているお公家さん"なら「杜若(八橋の袂でかきつばたという語を折り込んだ歌を詠む業平)」、"井戸を覗き込む童子と童女"は「筒井筒(井戸端で遊んで育った二人が年頃になりめでたく結婚した)」...というように即座に『伊勢物語』のエピソードを思い浮かべることができていたとおもわれます。(み)
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