秀山祭九月大歌舞伎 製作発表記者会見!

 9月歌舞伎座は、初代中村吉右衛門の生誕百二十年を記念し、初代の俳名である“秀山”を冠した「秀山祭九月大歌舞伎」。

 その製作発表が6月28日に行われ、中村吉右衛門、松本幸四郎、市川染五郎が抱負を語りました。

 

まず、吉右衛門から
  「初代吉右衛門は、父とか祖父とかを通り越した“名優”でございます。昔から延々と伝わる時代物、世話物、それから新しい歌舞伎を含めて、それらを我々に伝えてくれたのが初代吉右衛門です。また、我々の実父・白鸚や、歌右衛門らを育てたという、歌舞伎にとって大変功績のあった人ではないかと思います。 五十回忌(平成15年9月歌舞伎座)は済ませましたが、今度は“秀山祭”というお祭りをなんとかできないかと永山会長にお願いをいたしたところ、快くお許しを頂き今回の運びとなりました。さらに、雀右衛門の叔父様、芝翫の兄さん、富十郎の兄さん、兄の幸四郎、関係方々のお力添えで、今回の形になり、また、兄からも本当に気持ちよく、「良かったね。協力させてもらいます。」、という事をいただいて、私は生まれて六十余年、こんなに嬉しい事はありません。両親へも毎日仏壇に、このお礼を祈念いたしております。」

続いて幸四郎から
 「弟を前にしてこんな事を言うのもあれですけれど、弟が俳優として、人間として、どんな苦労をして、どんな我慢をして、そして今日の“二代目吉右衛門”を築いたか…という事は心の中で良く解っております。それが百二十年祭という形で実現できましたことは、兄として、これほど嬉しい事はございません。
それから、今回の公演に参加して、もう一度自分の中で“本当の歌舞伎”というものを考えてみたい、見つめ直したいと思っています。“昭和の歌舞伎”を背負って確立してきた先輩たちのように、“平成の歌舞伎”を確立するのは弟であり自分ではないのかと、それを受け渡す先は、染五郎ら若い役者…そのような事も考えながら、初日から千穐楽まで一生懸命舞台を勤めたいと思います。」

染五郎から
 「父、叔父の今の決意を、漏れることなく受け止めて、改めて覚悟をしたという気持ちです。非常に大きなお役もありますし、それ以上の責任感というものも突き付けられている思いがします。一つの出し物、一つの興行を担う一員といたしまして、責任をもって勤めていきたいと思います。本当に多くの方に見に来ていただきたいと思います。」

秀山祭での抱負を尋ねられると
吉右衛門は、
 「初代吉右衛門とは、兄ともども、子どもの頃一緒に(舞台に)出ております。その時、“ワーッ”と、喜怒哀楽で客席のお客様ががうごめくような、感動で魂が揺さぶられるような芝居をしていた記憶があります。播磨屋の歌舞伎というのはそういう芝居、そして僕はそれに近づこう近づこうとしております。お客様が “本当に魂が動かされたよ”と言ってくださるように…そして、それを受け継ぎ、次にも伝えたいなぁと思っております。」

幸四郎は、
 「“魂を揺さぶられる舞台”と弟が申しましたけれど、その通りで、なにも、歌舞伎だから偉い、歌舞伎役者だからどうのこうの、じゃなくて、“お客様に感動してもらう歌舞伎”、そして、そういう同じ思いの俳優さんと舞台を勤めるというのが、まことに面白い、そう思っているんです。そういう芝居は役者としては毎日やりがいがあります。おそらく初代播磨屋の時代もそうだったんではないでしょうか。その気持ちを忘れずに勤めたいと思っています。」

初代吉右衛門について尋ねられると、
幸四郎から
 「『俊寛』を自分でやりますとね、背中の汗が厚い衣裳を通して出ちゃうんです。背中に汗のシミが黒く出てくる、それを掛けて干しておくと塩を吹くんです。 “あぁ、これがおじいさんの芸だな”と、それくらい、全身全霊を込めてやらないとできない芸を、祖父は作っちゃったんですね。」

吉右衛門から
 「忘れられない言葉は、子役の時に、先々代の時蔵の叔父様で『重の井の子別れ』で三吉をやらせていただくときに、初代の前でやったら、…あまりの下手さに“お前、役者やめちゃえ”と、どなられた事(笑)。まあ、汗のことは、僕も汗かきで、それはDNAなんでしょうかね。」 

 初代吉右衛門は、九代目市川團十郎の芸風を継承して時代物役者として古格を伝えた第一人者でありました。さらに独自の深い解釈を加え、現在上演される多くの型を作りあげ、ことに役の心情を表現する台詞の巧さ、調子のよさは特筆されるものがあり、昭和歌舞伎を代表する名優として多くの功績を残しました。

 興行中は2階のロビーに、初代吉右衛門、ゆかりの品の展示を行う予定もあり、こちらもお楽しみ。初代の当たり役を幸四郎、吉右衛門兄弟らが勤める「秀山祭九月大歌舞伎」、“魂を揺さぶられる舞台”今から待ち遠しいかぎりです。

2006/07/13