三世中村雀右衛門

 明治から大正へかけての上方劇壇の筆頭の名女形で、八重垣姫、お光、お染、お舟、梢などを当たり役とし、最後まで娘方で通した。

 明治初期の二枚目役者として評判だった嵐璃笑の実子、大阪新町で生まれた。笑太郎の名で初舞台を踏む。若い頃は、立役を好んで演じたという。父の死後、二世雀右衛門の養子となり、芝雀を名乗り東京へも出るようになった頃から、女形専門になった。

 終生忘れ得ぬうま合いの親友として、雀右衛門とのコンビが一番芝居がし易かったと言う二世實川延若は「雀右衛門さんは第一に舞台でイキの実にいい方で、それにあの娘々した独特の愛嬌と色気は今日他の役者ではちょっと比べる人もありますまい」とその芸談で褒めている。鴈治郎の相手に廻っても、火花を散らすような激しさで向かい、舞台の上では少しも遠慮しなかった。それでいて「天網島」の大和屋で、鴈治郎の治兵衛が戸を開けると、内に待ち構えていた小春が、その手をじんわりと握りしめる。鴈治郎もそれに応えて情を込めてぐっと握り返す。客席からは見えない二人のやりとりで、鴈治郎は「いつなんどき小春と死んでもええ」と思い込めたと言う。単に姿形がよかっただけではない。東西を通じての近代の典型的な女形として人気を集めた所以(ゆえん)である。

 延若とも息の合った名舞台を数多く見せているが「延若と舞台に立つと血圧がぐっとはね上がって三十は高くなっていた。それが又、鴈治郎と舞台を一緒にすると、更に血圧の目盛りはとび上がって、平常値よりも四十は高くなっていた」と主治医高安六郎博士が語っている。

 昭和二年十一月、中座での「本蔵下屋敷」で、鴈治郎の若狭之助に三千歳姫を勤めている最中舞台で倒れ、扮装(こしらえ)のまま楽屋で息をひきとった。享年五十三歳。いかにも女形雀右衛門らしい華やかな終焉であった。

(明治8年1875年~昭和2年1927年)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。