初世中村魁車

 明治八年十二月、大阪塩町の商家に生れた。初世中村鴈治郎の門に入り、成太郎と名乗り、十三年戎座(後の浪花座)で初舞台を踏む。二十六年弁天座で名題昇進。大正三年一月、浪花座で魁車と改名する。

 鴈治郎門下の第一の俊才で、覇気盛ん、若い頃は特に負けぬ気が強く、二十五歳ごろ単身上京し、左團次一座で修行し、各座へ出るが、大阪に無くてはならぬ役者だという声がおこり、鴈治郎の元へ戻った。

 同年輩の中村福助(後の三世梅玉)とは終生のライバルで、共に鴈治郎の相手役として競ったが、名門の梅玉との人気争いに負けまいとして、立役、敵役、老役、二枚目と出来ない役は無いというほどの芸域を広げ、何れの役でも相応以上の成果を上げる達者な腕を見せた。

 しかし、本領はやはり鴈治郎の相手役として勤めた女形の役々で、華やかな内にも陰翳もあり、上方歌舞伎独特の粘りと巧味のある芸風で重宝され、鴈治郎没後の関西劇壇を、延若梅玉と共に支えた。
 晩年には、師匠ばりの「石切」の梶原、「寺子屋」の源蔵、「土屋主税」などでも、喝采を博したが、「引窓」のお早や「毛谷村」のお園などで、真似手の無い舞台を見せた。

 昭和二十年三月十三日の空襲にあい、防空濠の中で不慮の死を遂げ、戦後、その舞台に接する事は出来なかった。

(明治八年1871~昭和二十年1945)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。