三世阪東壽三郎

 二世壽三郎の次男、大阪島の内で生れる。明治二十四年、長次郎の名で初舞台。十三歳の時上京。浅草の子供芝居に加わり、中村吉右衛門とも一座した。成人後、二世市川左團次一座で修行の後、帰阪してからは、中村鴈治郎一座や、實川延若一座で活躍した。大正元年、浪花座で三代目を襲ぐ。大正十一年、研究会「第一劇場」を主宰し、新作や翻訳物で大阪劇壇に新風を捲き起こした。

011.jpg 初世鴈治郎没後、梅玉魁車と共に、「鼎(かなえ)会」をおこし、上方風の新味のある佳作を見せたが、世は戦時に入ると共に、座付作者郷田悳(ごうだとく)と組んで、いわゆる勤皇物と呼ばれる作品を次々と主演した。

 大阪劇壇のニューリーダー、そして上方の左團次といわれた新しい芸風を生かした英雄烈士の役々は、壽三郎の代表役に上げるべきだが、時局劇であったため、戦後は正当な評価が受けられなかった。

 延若の没後は、名実共に関西劇壇の頭目となり、東京より移籍してきた市川壽海と「双壽時代」を作った。

 立派な体躯と押し出しを生かした時代物、「寺子屋」の松王や、「熊谷陣屋」の直実などを得意とし、「忠臣蔵」の由良之助でも座頭の貫禄をしめしたが、どちらかというと由良之助よりは内蔵之助だと言われたほど、新歌舞伎でよりすぐれたうでを見せた。「大石最後の一日」や「堀川波の鼓」(近松門左衛門原作)は他の追随を許さず、男を泣かせる役者であった。

 しかし、壽三郎の本領は、和實の役々、辛抱立役にあった。「沼津」の十兵衛、「宵庚申」の半兵衛、「帯屋」の長右衛門等々に、前代の上方歌舞伎の芸に、一刷毛近代味を加え、巧拙を超え、真実の肚のある役を作り上げた。むしろ和(やわら)か味に特徴のあった芸風を思う時、その活躍期が戦争と重なったのは、やはり壽三郎の悲劇だったと云わざるを得ない。

 昭和二十九年六十九歳、名実共に歌舞伎役者として大成せんとするとき、天は齢を貸さなかったけれど、関西歌舞伎の代表者として最後を飾った実力は高く評価されるべきである。

(明治十九年1886~昭和二十九年1954)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。