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上方歌舞伎・想い出の俳優



八世坂東三津五郎

 明治四十三年、守田家に入る。養父は七世坂東三津五郎。大正二年一月、市村座で坂東八十助を名乗り初舞台を踏む。少年期には小山内薫の私塾で学ぶ。

 昭和三年六月、明治座で六世坂東簑助を襲名。同七年、新宿第一劇場を本拠とした"青年歌舞伎"に参加し、我當(十三世片岡仁左衛門)しうか(十四世守田勘弥)もしほ(勘三郎)児太郎(歌右衛門)らとともに人気を集めた。人一倍血気盛んで、常に時代の先端をゆく行動で注目を集めた。

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 もしほ、中村又五郎、杉村春子等の協力を得て"新劇場"を結成。『ボギー』を演じた。その三回目に『源氏物語』の劇化を企てたが、直ちに上演を禁止された。十年、"東宝劇団"に入り、新天地で活躍した。五年間在籍の後東宝を去り、十五年関西に移籍、戦中戦後の関西歌舞伎の軸となった。後には"武智歌舞伎"の教授役も勤め、延二郎(後の三世延若)鶴之助(現 富十郎)扇雀(現 鴈治郎)などの俊秀を育てた。三十六年、東京松竹に復帰、三十七年九月、八代目三津五郎を襲名し、以後重鎮として活躍した。

 常に歌舞伎界の新しい人であったと同時に父三津五郎の薫陶を受け、故事に詳しく正統の歌舞伎役者として認められた。一流の文士や芸術家との交流も深く、自身の著書も多い。

 至って芸域が広かったが、若い頃から老け役を好み、年齢を重ねると共に滋味が加わり、『忠臣蔵』の師直、『実盛物語』の瀬尾、『油地獄』の父徳兵衛、『夏祭』の義平次『曽根崎心中』の叔父久右衛門等を当り役にした。故事を弁えた上での理論的な演技術は、新作物に発揮され、傑作も多いが、中でも『少将滋幹の母』の大納言国経は余人の追随を許さなかった。元より家の芸、父譲りの舞踊にもすぐれ、『猩々』で見せた表情の無い表情の面白さなど、懐かしく思い出される。

 昭和五十年正月、京都・南座での『お吟さま』で、畏敬する千利休を楽しんで演じていたが、河豚中毒で急逝した。享年六十八歳。役者として円熟の機を迎え、また、歌舞伎界と他の社会との接点としても得難い人であっただけに、惜しみてもあまりある最期だったが、未だ計り知れない実力と魅力を残しての早幕の退場は、いかにも三津五郎らしいとも云えるだろう。

(明治三十九年1906~昭和五十年1975)
※本稿が執筆された2002年当時。鴈治郎は現藤十郎。


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

上方歌舞伎・想い出の俳優

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