十世嵐三右衛門

 明治三十九年、大阪南の西櫓町の料理屋の家に生れる。三世中村梅玉の門に入り、大正元年一月、中村福万寿の名で浪花座で初舞台を踏む。大正十二年、名題昇進、昭和四年二月、中座で『二人袴』の雛鶴で七世中村駒之助を襲名する。

 昭和十年、東宝劇団に参加後、松竹に復帰し、昭和二十三年正月、戦後復興の中座の?落し興行で、上方の大名門嵐家の元祖嵐三右衛門を十代目として襲名、六方の始めとして歌舞伎史に残る三右衛門の"だんじり六方"を復活し披露した。

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 大柄で立派な押し出しの体躯でいて、上方風の柔らか味があり、女方から出発し、立役から二枚目、老け役更には現代劇もこなす器用さがあった。昭和二十六年、松竹の作った新劇団<新潮>で『夫婦善哉』等々の主役を演じた。昭和二十七年、八年、十三世片岡仁左衛門の奮闘した仁左衛門一座に常連として出演し、『引窓』の濡髪、『寺子屋』の源蔵、『三味線やくざ』の親分七五郎などで、松嶋屋の向うに廻り、堂々とした貫禄を見せた。

 その後直ぐ宝塚新芸座に籍を移し、混成一座の歌舞伎方の座頭として河内山、『夏祭』の団七、『無法松の一生』などの新旧の芝居を主演した。新芸座退団後は、映画畑に転じ大映の専属となった。以後も東宝系の中間演劇に誘われる事も多く重宝された。

 大名跡三右衛門を襲ぐほどの本格的な歌舞伎役者でいながら、他の分野に活躍の場を求めたのは、彼の意欲と当時の幕内での処遇が合わなかったからであろうか。またどんな芝居にでも通用する調法さが買われたのでもあろう。関西歌舞伎にずっと腰がすわっていたら、大きな場を占めるようになっていたであろうのに、やっと歌舞伎に戻ってき、鴈治郎の一座に加わるようになった時には、既にかつての覇気は無くなっており、コクが失せ水っぽい芸になっていた。年齢(とし)とともに体調も不充分で、歌舞伎役者として晩年を飾れなかったのは、才人三右衛門にとってはさぞ不本意であったろう。しかし案外いろいろな畑で思うさま活躍できた事を喜んでいたのかもしれない。

 昭和五十五年、祇園祭の日、京都の自宅でだんじり囃子を耳にしながら亡くなった。

(明治三十九年1906~昭和五十五年1980)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。