五世上村吉彌

 大分県杵築(きづき)生れ。父親は大工職であった。杵築は江戸時代以来、杵築歌舞伎(地芝居)の栄えた土地で、芝居好きの父親に子役で出されたのが始めで、九歳の年、博多の大博劇場で、中村桂之助を名乗り、九州一円を巡演するようになった。

 以後、諸処の一座を転々とし、昭和八年、大阪松島の八千代座に入る。これをきっかけに、関西歌舞伎の大立者二世市川右團治の門に入り、市川右升の名を貰う。

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 昭和十一年頃、細川興行巡業部に加わり、一座の立女方として、関西各地で活躍する。『朝顔』や『阿古屋』を得意とし、とりわけて『阿古屋』は、右升の阿古屋か、阿古屋の右升かと言われるほどの評判を取った。十九年、戦争が益々激しくなり、細川興行は解散するが、大阪千日前の南宝劇場の「新鋭歌舞伎」に入座する事が出来た。

 終戦直後、昭和二十年十二月、京都新京極の京都座に出演、初めて松竹の舞台を踏む。松竹の白井会長が、南宝劇場での演技にかねてより注目していた故だと言う。昭和二十二年正月、大阪歌舞伎座で、元禄期の名女形、上村吉彌の名を五代目として襲名、以降関西歌舞伎で着実な地位を築いて行くが、三十年代の半ば、関西歌舞伎は長い沈滞に入ってゆく。廃業する人、映画に転進する人、東京へ移籍する人が続く中、吉彌は当時座頭であった市川壽海の一門に入り、少ない出番の中で、したたかに生き抜いた。

 吉彌の叩き込んだ芸が、昭和四十年代に入ってから、ようやく大事にされるようになった。名脇役と言われた人々が次々に亡くなり、重要な老け女形の役々が、集中するようになってきた。また中座で北條秀司の『京舞』が上演された折、地唄の三味線を弾きこなす難役を楽々と演じ、京女の情を見事に描ききった。その後は順風満帆、東西の大幹部から、そして若手女形からひっぱりだこにされるようになった。『引窓』の母お幸、『六段目』のおかや、『油地獄』の母おさわ、中でも『合邦』の女房おとくは、歌右衛門、仁左衛門の相手にまわり、絶賛された。双光旭日章ほか数々の栄誉を受け、故郷杵築市の名誉市民にも推された。

 平成四年元年、享年八十二歳で生涯を閉じた。歌舞伎役者としては、波瀾の一生だったが、見事に終わりを全うしたのは、(宜しき)役者であって、(悪しき)役者らしからぬ人柄の故であったと、懐かしく思い出される。


(明治四十二年1909~平成四年1992)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。