十四世片岡仁左衛門

 十二世仁左衛門の長男。大阪で生れる。大正六年十月、大阪中座、片岡はじめの名で初舞台。十三年、片岡ひとしと改名。昭和九年六月、歌舞伎座で五世片岡芦燕を襲名。端正な真女方として活躍する。一時、東宝劇団や、青年歌舞伎にも加入する。

 昭和三十年七月、歌舞伎座『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』のお舟で、十三世片岡我童を襲名。以後、その名で通す。

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 上方の古風な風合いを残した貴重な女方であった。若い頃は父譲りの『朝顔』の深雪、『沼津』のお米、『吉田屋』の夕霧などを得意とした。終生老け女方には手をつけず、自分の気に入った役以外は受けなかった。晩年は花車方(かしゃがた)にまわり、『封印切』のおえん、『吉田屋』のおきさなどで、風情と色気のあふれた容姿、演技で真性の上方芝居を見せた。

 「七人の会」第三回公演(昭和三十六年七月)で演じた『酒屋』のおそのと三勝の二役は、しっとりとした味わいで、義太夫狂言の面白さを堪能させたが、特に印象に残っている新作(かきもの)が二作ある。昭和三十年、我童襲名の月に、谷崎潤一郎の『十五夜物語』を出している。吉原の遊女上がりの女が、浪人の亭主との無為な生活に倦み、心中するという小品だけれど、谷崎の描く倦怠感を見事に表出した。三世中村時蔵の亭主も傑作だったが、古風な二人で、新歌舞伎には珍しい情趣を漂わせた。    

 『西郷と豚姫』も忘れられない。十七世中村勘三郎が得意にして度々上演しているが、その初演以来、芸妓岸野を持役にした。お茶屋で酔っ払って主人公お玉に愚痴を並べていく、言わば彩りの役だけれど、我童が出てくると、確かに酒の匂いがし、舞台がそのまま京の三本木のお茶屋になる。仁(じん)や技量(うで)を越えて、役そのものになりきった存在感は、余人には求められないものだった。上方の味を残した古風な役者という評価に依存は無いが、女優にはない女方独特の明るさ、身のこなしは案外、新作歌舞伎に適していたのではなかろうか。

 平成三年十一月、新装南座の?(こけら)落とし顔見世興行でお得意の『河庄』のお庄で出た後、舞台に顔を見せなかったが、平成六年春早々に、訃報を聞いた。前年の大晦日にひっそりと逝ったという。享年八十三歳。老いた顔を見せなかったのも、如何にもそれらしい退場だったといえよう。

 生前紫綬褒章、勲四等旭日小綬賞の栄誉を受けているが、平成十年、片岡孝夫が仁左衛門を襲名するに当って、十四代目を追贈した。


(明治四十三年1910~平成五年1993)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。