七世嵐徳三郎

 高松市の生れ。父はサラリーマン、母は結髪師であった。日本大学芸術学部に入学し、国劇研究会の歌舞伎公演に参加する。重の井、戸浪、累、お光、相模、滝夜叉などの大役を手がけた。この公演を見た松竹の大谷会長が、歌舞伎会に新風を吹き込む為、歌舞伎俳優公募を試み、日大歌舞伎の六名が選ばれ、学士俳優のスタートを切った。

 大谷会長は最初から幹部扱いをし、自分の姓を与え、大谷ひと江の名で、昭和三十一年三月、中座で初舞台を踏んだ。

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 学士俳優の出発を契機として発足させた「松竹演劇塾」で、『本朝廿四孝』の八重垣姫を始めとして、大役を続けて演じた。中でも『忠臣蔵 九段目』の戸無瀬で、目を瞠らせた。折から関西歌舞伎を取り巻く環境は、次第に思わしくなくなり、自主公演でつないでいくようになった。その「仁左衛門歌舞伎」の第二回目公演の、『女殺油地獄』で、片岡孝夫(現 仁左衛門)の相手役のお吉に選ばれ、見事出世芸となった。映像の世界で活躍していた二世鴈治郎が、この頃復帰の意欲を見せ、『封印切』『土屋主税』『河庄』などでひと江を相手役に起用した。十三世仁左衛門も、「仁左衛門歌舞伎」を発展させた「若松会歌舞伎」でも重用した。「若松会」の国立劇場公演に参加したのがきっかけとなり、自分の主催する「日桜会」の東京公演を実現させ、東京でも認められるようになった。

 ひと江の歌舞伎役者としての道にも力を貸した松嶋屋の後立で、昭和四十六年二月、上方歌舞伎の名門、嵐徳三郎の名を七代目として襲名する運びとなった。

 昭和五十二年十一月、中座で『忠臣蔵』が東西競演された時、九段目のお石を、鴈治郎仁左衛門、扇雀(現 坂田藤十郎)に囲まれて、堂々と演じ切った。歌舞伎役者としてはまず順調な歩みを続けていたのだが、ジャーナリズムは、門閥の出で無い徳三郎に<歌舞伎界の孤児>というレッテルを何時までも貼り、本人もまた、自分の置かれている場に安住せず、渋谷のジャンジャンでの「実験歌舞伎」を始めとして、歌舞伎以外の数々の舞台に挑戦し、やがて昭和六十二年の蜷川幸雄演出の『王女メディア』の主演につながる。新劇俳優に求められない大きさと演技力を認められ、日本で上演を重ね、ロンドンを始め、世界各地を翔る徳三郎畢生(ひっせい)の役となった。本領の歌舞伎でも、花車方に回ることが多くなったが、上方の味を匂いを十分に味わわせ、立役でも二枚目系統から、色敵や渋い男の役所まで領域を広げた。

 平成十一年三月、国立劇場での『本朝廿四孝 筍掘り』の母越路に指名された。三婆の一つの大役だが、望外の好評を得、今日歌舞伎界に抜けている役所を埋める可能性があると、大いに期待された。

 平成十二年三月、ルネッサながとの?落とし公演の初日、『封印切』のおえんを勤めたが、体調を崩して二日目から休演し、終に再び舞台に顔を見せる事は無かった。十二月五日、急逝。かえすがえすも心残りな役者である。


(昭和八年1933~平成十二年2000)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。