為末大選手にとって今回は初めての歌舞伎観劇。北京オリンピック出場を経て現在はアメリカに拠点を移して活動を続けているため、一時帰国の時間を縫って劇場を訪れていただきました。
拝見した舞台は『夏祭浪花鑑』(※1)。定式幕が開き、鮮やかな暖簾のかかった髪結床のある住吉鳥居前の大道具が眼の前に現れると、為末選手は思わず「おー」と歓声をあげます。
為末 「想像していたよりも“台詞やストーリーが普通に楽しめる”というのが新鮮でした。江戸時代もきっとこうだったのかな、という空気感が劇場いっぱいに漂っているのがなによりすごいですね」
富樫 「どのような空気を感じましたか?」
為末 「例えば江戸時代は今のように電気はないわけですよね。大きな劇場で照明はどうしていたんだろうとか。もし外で上演していたのだとしたら、役者さんの声の大きさや台詞の張りは今とどう違っていたのかとか…」
富樫 「どういう人が観に来ていたんだろう?など想像するのもおもしろいですよね」
為末 「そうですね。客席も今日はふかふかの椅子席で観ているけど、ゴザだったのかなとか…。芝居を観ながら江戸時代の様子を想像させる空気がそのまま残っていますよね。歌舞伎座という空間と、舞台装置、役者さんの演技全てが一体になって作り出しているんですね」
歌舞伎座の中に江戸の空気を読み取る。一流アスリートだからこそ持つ勘の良さ、分析眼なのでしょう。さらに為末選手の眼は、舞台で繰り広げられる俳優の動きひとつひとつに凝縮されていきます。
二幕目。主人公の団七が、「恩人の子息である玉島磯之丞の恋人・傾城の琴浦を舅がかどわかして連れ去った」と聞き、後を追う場面――
勢いをつけ舞台から走り出す団七が花道の七三で見得をする場面には釘付けになっていました。
為末 「全力で走っていって、突然ピタリと止まる動きはすごかったですね。陸上選手にとって、動いている状態をいきなり止めるのは難しいんですよ」
富樫 「そうなんですか。歌舞伎の見得は、ああいった感じでピタっと止まる動きが多いから普通に観てしまっていました」
為末選手は動きの基本を、実際に見せてくださりながら話を続けます。
為末 「例えばお茶碗を手で持って、そのお茶碗をテーブルにすれすれ着くか着かないかでピタっと止めるだけでもすごく難しいんです。ですから全力で走っていて急に全身の動きを止めるのは、尋常でない訓練をしていないとできないと思います。顔の筋肉まで止まってましたもんね。すごかった」
為末選手の眼は歌舞伎の美しさを作る身体、そして動きの向こうにある深い精神性を見つめていました。