十一世片岡仁左衛門

 近世歌舞伎の名人である。義太夫の造詣が深く「堀川」「鰻谷」「吃又」等を歌舞伎に移しその演出は今日の歌舞伎に伝えられている。「帯屋の長右衛門」や「廿四孝の慈悲蔵」などでは、他の追随を許さない辛抱立役の最高芸を見せた。

 一方、明治の團菊以後、当時としては画期的な文学的戯曲「桐一葉」や「櫻時雨」等の新作を取り上げ、成功を収めた。晩年は「吉田屋」のような家の芸も後進に譲り、時折「堀川」の与次郎を見せるぐらいで、柿右衛門や來山などで枯淡な境地をひらいていった。

 安政四年、八代目仁左衛門の子として、江戸猿若町で生まれた。幼名秀太郎。翌安政五年、二歳で初舞台を勤めた。八代目は文久二年、大阪へ帰ったが、翌年中の芝居の舞台で倒れ没した。時に秀太郎七歳。以後大阪の各地の子供芝居で活躍したが、明治八年、十九才で角の芝居の檜舞台を踏み、本格の修行に励むようになった。

 明治九年、我當と名を改め、兄我童に従って東京へ初上りした。このように生れは東京で、芸の故郷は大阪であった我當は、再び東京で大きくなり、明治十年代の末には、座頭格の位置を占めるようになっていた。

 明治十九年の春、大阪へ戻り、すぐに中の芝居の別看板に据えられた。以後、大阪の芝居は、まったく我當・鴈治郎の対立によって大きく展開し、大阪中の贔屓を真ッ二つにした人気争いで火花を散らした挙句、ついに両優は同じ舞台で顔を合わせることが無くなった。

 明治三十六年、團菊が没し寂しくなった東京に移り、また東京に定住するようになった。高級な新作-新歴史劇-に手をそめだしたのもこの頃であり、以後活躍の場は東西に広がり、明治四十一年、角座で十一代目仁左衛門を襲名した。大正十二年関東大震災の後、二十八年ぶりで鴈治郎と和解がなり、鴈・仁の共演で京や大阪を沸かせた。

 昭和九年、大阪歌舞伎座で甥我童の子ひとしの改名披露の口上に出るため来阪したが、急性肺炎にかかり、同月十六日、宗右衛門町の旅宿で亡くなった。奇矯に富んだ名優の七十八年の生涯であった。

(安政4年1857年~昭和9年1934年)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。