上方歌舞伎・想い出の俳優



五世片岡愛之助

 明治三十九年、大阪難波の骨董商の家に生まれる。初世鴈治郎門下の中村成若(後の市川新升)の養子となり、市川新左衛門の名で大阪本町座で初舞台を踏む。養父の死で一たん実家へ帰ったが、十七歳の時、片岡我童(後の十二世仁左衛門)に入門、片岡我久三郎を名乗る。

 昭和十七年、片岡家では重い名跡である愛之助を五代目として襲名する。東京では『源氏店』の下女、京都では『阿古屋』の楱沢が披露の役だった。

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 小柄で地味な芸風で、老巧な演技を見せたが、若い頃は『酒屋』の三勝や『後の梅川』の梅川などで評判を取ったと言う。自ら負けず嫌いでかんしゃくもちだと言うくらいで、晩年は所を得ぬと愚痴をこぼすことも多かったらしいが、院本物(まるほんもの)でも『忠臣蔵六段目』のおかやなどで仁を生かした手強い役作りを見せたが、どちらかというと世話物や新作(かきもの)の脇が本領で、愛之助ならではの役々が数多く有る。

 年功を積んだ脇役者ほど、役を自分の手元に引きつけ、仕勝手にこなしがちだが、愛之助は積極的に一つ一つの役を丁寧に掘り下げ、如何にもその人らしい人物像を作り出した。『一本刀土俵入』の老船大工、『西郷と豚姫』の料理人など、この人が出てくるだけで、その場の雰囲気が見事に舞台に漂った。北條秀司の『京舞』の女中頭お三重でも、難しい地唄の三味線を弾きこなす技倆(うで)と祇園町の女の情を描き出す心を兼ね備えていた。

 古典では『酒屋』の婆や、『堀川』の母親、『帯屋』の婆おとせなど、柄にも仁にも合い結構だったが、取り分けて『夏祭』の三婦女房おつぎが忘れられない。いかにもすがれた味でいながら、残(のこ)んの色香があり、出すぎず、引っ込みすぎず、脇の分を十二分に心得た演技で、十三世仁左衛門の三婦が楽しく芝居が出来るように運んでいた。

 まことに得難い脇役者であったが、最晩年は上方での歌舞伎公演が減少し、来演の機会が少なかったのが残念である。享年は六十九歳。その貴重さを思う時、いささか早かったといえよう。

(明治三十七年1904~昭和四十八年1973)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

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