上方歌舞伎・想い出の俳優



初世中村松若

 初世中村鴈治郎付きの頭取重光峰太郎の子。明治三十九年大阪西区で生れる。四歳で鴈治郎に入門、中村いびしの名で堂島座で初舞台を踏む。後中村あふぎと名乗る。大正十四年一月、中村扇と改め、名題昇進。昭和十四年二月、大阪歌舞伎座で中村松若と改名する。松竹白井松次郎会長の松と、鴈治郎の俳名扇若の若を合わせた生涯自慢の芸名であった。

 文字通り成駒屋の膝下でたたき上げ、大阪の芝居で生き抜いた。鴈治郎を始め、上方大歌舞伎の古名優の舞台にじかに接した体験と記憶は貴重で、克明に型と演出(衣裳・かつら・小道具から下座までも)を書き写した松若メモ-台本-は、近代上方歌舞伎伝承の得難い財産になっている。

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 同時期の歌舞伎の名脇役といわれた人達は、若い頃に芯の役を経験したり、中小芝居の立者であったりした例が多いのだが、彼の場合は終生脇役に徹した所に特徴があり、独特の芸味の元がある。鴈治郎の芝居はもとより、上方狂言で占める松若の役割は大きく、古典新作を問わず、また善悪いずれもこなしたが、敢えて言えば柄を生かした端敵が本領であった。

 松若ならではの役々も数多いが、類型に止まらず、近松原作の『堀川波の鼓』の磯部床右衛門など、近松のせりふをきちんと生かした上、歌舞伎味をふくらませた。同じ近松の『油地獄』の稲荷法印のいかにもそれらしい可笑し味なども余人には求められない。場合によっては演技過剰のそしりを受ける場合もあったが、それこそが上方芝居の陰影を深める松若の芸であったと言って良い。

 晩年は、上方歌舞伎の不振期と重なり、二世鴈治郎は歌舞伎界を離れ、扇雀(現 鴈治郎)与一(初世鴈治郎の曾孫)も歌舞伎以外を本拠とするようになり、松若も随行する事が多くなった。そんな中間演劇の舞台でもその知識と技倆は大事にされ、大いに買われたが、ただ、上方風が骨の髄までしみこんだ絶後の脇役者としてより多くの役を見る機会が少なかったのは心残りである。せめても、昭和五十四年正月、歌舞伎座の鴈治郎・扇雀・仁左衛門顔合わせの『河庄』で、得意技の太兵衛が最後の舞台になったのは、近代上方脇役の代表松若の本懐であっただろう。

(明治三十九年1906~昭和五十四年1979)
※ 本稿が執筆された2002年当時。現藤十郎。


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

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