上方歌舞伎・想い出の俳優



十世嵐雛助

 大正二年、東京で生まれる。生家は出版業とある。初世中村吉右衛門に入門。大正九年、中村蝶太郎の名で、市村座で初舞台を踏む。

 昭和十年、中村もしほ(後の十七世中村勘三郎)に付き、東宝劇団に入る。十五年、もしほと共に松竹へ復帰し、関西歌舞伎に所属する。松竹会長白井松次郎に認められ、もしほが東京に帰った後も一人関西にとどまり、美貌の女方として、めきめきと頭角を現す。昭和十七年九月、幹部昇進。

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 昭和十八年二月、大阪歌舞伎座で、上方歌舞伎の歴史に残る大名跡、嵐雛助を十代目として襲名。中村富十郎に次ぐ女方として、延若壽三郎などの相手役を勤め、人気絶頂。映画『田之助紅』に主演する。戦後も人気は衰えず、壽三郎を相手に廻した新作『吉田御殿』を持って、いち早く単身東京に上がっている。年齢を重ねると共に、昭和三十年代、関西歌舞伎が不振の期に入り、次第に活躍の場が少なくなったが、ようやく美しさを誇る女方の域を脱し、新作物などで、個性的な役柄を開きかけた時、病に倒れた。

 雛助といえば、先ず美貌を思い浮かべるが、名門の出でなく、歌舞伎界のスターに駆け上った技倆とヴァイタリティ、そして役に対する貧欲なまでの真摯な取り組みは並々なものではなかった。先輩に対してもおめず臆せず、後輩に対しては厳しい態度で臨む。ある意味では、たたき上げた役者の典型ではなかっただろうか。

 容姿は女方にピッタリだったが、難は悪声とも云うべき声柄で、三姫など古典の大役や、娘役ではハンディになったが、世話物系の敵役がかかった役では、粘りのある演技を生かした。『伊勢音頭』の万野など、独特の味を出した。晩年は市川猿之助一座に加入する事が多く、復活狂言の悪婆の役柄で用いられた。新しい物でも『瞼の母』の夜鷹は面白い傑作であった。

 昭和五十八年二月、大阪梅田コマ劇場の猿之助公演『舟遊女』の小笹を演じた後、映像歌舞伎の『奥州安達原』の浜夕役の映像の撮影に向かう途中倒れ、懸命の療養を続けたが、その後、復帰は叶わず、昭和六十一年一月、七十二歳で不帰の人となった。若い頃の華やかさを思う時、関西歌舞伎の不振が原因とはいえ、晩年の不遇は、何ともわびしい。

(大正二年1913~昭和六十一年1986)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

上方歌舞伎・想い出の俳優

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