三世實川延若

 二世延若の長男。大阪で生れる。昭和九年三月、大阪歌舞伎座で、二世延二郎を名乗り、初舞台。娘形、若衆役を本領として研鑚を積む。昭和十二年『忠臣蔵』の力弥を勤めたが、以降昭和三十年まで、この力弥を持役にした。関西歌舞伎での延二郎の位置を象徴している。

 勿論、河内家の御曹司として、上方歌舞伎の本道で、着実に力をつけ、芸域を広めていった。順調に行けば、父延若同様、オールラウンドプレイヤーとして、関西歌舞伎の座頭の座に坐っていた筈なのだが・・・。

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 昭和三十年代に入り、関西での歌舞伎興行が激減し、東京へ出演する機会が多くなった。昭和三十八年、延若の名を三代目として襲名するが、東京歌舞伎座が初披露の場であった。やがて生活の場も東京に移さざるを得なくなった。当初は、その多彩な演技力で重用され、存在感を示したが、本来が上方の役者であった。多くの上方の先輩の芸を見聞きし、自ら演じてもいる。上方独自のやり方、そして東京と違った良さも熟知している。自分の工夫で役を作ることを大切にする上方と異なり、先人の演出に従うことを至上とする東京では、延若の考え方が入れられる事は無い。

 もともと内向的で温和な性格だったので、表立って争いはしなかったが、自分の知識や技能が発揮できないのだから、次第に屈折の度を深めていったようだ。亡くなる七・八年前から、演技に生彩が失われ、特にせりふの覚えが悪くなったが、後で思えば、その頃から体調を崩していたのだろう。しかし、その事を遂に弁明する事は無かった。

 『すし屋』『忠臣蔵』などの古典で、上方の形を基盤とした延若独自の舞台も見せてくれたし、『封印切』『炬燵』などの上方狂言にも風姿を生かしたえもいわれぬ二枚目の味を見せ、父譲りの『夏祭』や『沼津』の平作なども忘れられないが、本人が最も凝って、楽しんで演じたのは、立役、女方を問わず、一寸ひねった性格的な脇の役々であった。

 平成二年十二月、京都祗園歌舞練場での『落人』の勘平が最後の舞台だった。芸術院賞、紫綬褒章、旭日小授章など受けているが、上方歌舞伎の代表として本領を十二分に見せられぬまま、いまだ七十歳、退場を余儀なくされたのは、上方歌舞伎にとってはかり知れぬ痛手であったし、いかにも口惜しい。後継にも恵まれず、延若の名が伏名(ふせな)にされ、名門河内屋が今日絶えているのも、やりきれない。


(大正十年1922~平成三年1991)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。