上方歌舞伎・想い出の俳優



初世中村桜彩

 大正十一年、大阪で生れる。幼時は日本橋にあった母の縁続きの落語家橘家円枝の家で育った。落語の稽古をしたこともあったが、役者になりたくて、新派の梅野井秀夫の一座に加わる。

 千日前の大阪歌舞伎座開場式で初めて見た歌舞伎に魅せられ、昭和十六年、中村扇雀(後の二世鴈治郎)に入門。六月神戸松竹劇場で、中村扇次と名乗り、歌舞伎役者としてスタートを切る。十月、師の翫雀襲名と共に、翫之丞と改名する。その年の末、戦争に突入する。

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 戦後の混乱期には一時、市松延見子の一座に加入し、中村圓三郎と名乗る。昭和二十六年三月大阪歌舞伎座で、中村鴈之丞と改名、その後、師鴈治郎の映画入り、そして大阪の歌舞伎の衰退期にも、関西歌舞伎を動かず、鴈治郎の復帰後、またその没後も、成駒屋一門を支え、平成二年、三代目中村鴈治郎の襲名を機に、中村桜彩と改名、幹部に昇進する。現 翫雀、扇雀を補佐し、三代にわたる成駒家の後見として大きな功績があるが、また大阪の芝居、取分けて女方の技法に精通し、「つくし会」「松竹演劇塾」などの若手の指導役としても、貴重な存在であった。

 性格は温厚、律儀で、幼時の環境の故もあり、愛嬌があって、楽屋の内外多くの人に愛された。生粋の上方の女方で、上方世話狂言の脇の花車方を本領とした。『封印切』のおえん、『心中天網島』の叔母などの情味も結構だったし、十三世片岡仁左衛門の相手に廻った『夏祭浪花鑑』の三婦女房おつぎでも、大阪の匂いを満喫させた。若い頃の勉強会での『炬燵』のおさんの技量の確かさ、『野崎村』のお染の天真爛漫の明るさも忘れられない。本人は新作物の悲劇の女とか、特殊な癖のある役が好きだと言っていたが、常に凝った役作りで、点景の人物でも面白く仕出かし、芝居の彩りを深めた。

 平成七年、中座の正月興行で、晩年持役にしていた『曽根崎心中』の下女お玉を初日だけ勤めたのが、最後の舞台となった。享年七十二歳、成駒屋の為にも、上方歌舞伎の為にも、もっと齢を重ねて欲しかった。


(大正十一年1922~平成七年1995)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

上方歌舞伎・想い出の俳優

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