取材・文=清水まり
敵対する二つの勢力が真っ向からぶつかる大詰。
仙人久利修那(クリシュナ、菊五郎)が両陣営に命じた古よりのしきたりの一つは「戦いは一対一とする」というものだった。
その命に従い、組曲のようにあちこちでさまざまな対戦が繰り広げられていく。
今月、歌舞伎座には両花道が設えられている。両花道を効果的に使った演目はいくつもあるが、こんなにも存分に活用した作品はかつて目にしたことがない。そして戦というシチェーションを得てそれはさらに際立つ。
迦楼奈(カルナ、菊之助)と阿龍樹雷(アルジュラ、松也)が、白馬に曳かせた戦車で両花道から登場したときの華やぎは心躍るひとときだ。いよいよ最終決戦の始まりである。序幕からさまざまな風景を描き出していた巨大な屏風は、本舞台の中心で大きな柱と化しており、両者はその周りをぐるぐると疾走。
激しい立廻りによる対戦はここに至るまでにもいくつかある。手を替え品を変え、次々に繰り出されたそれらは、武器による違いも含めてさまざまな戦闘スタイルとなり、楽しませてくれる。
その視覚的面白さに加えて、何より印象的なのはいずれの戦いにもドラマがあることだ。
生きるか死ぬかという極限の状況で敗北者たちが垣間見せる本音は、何気ないひと言であったり心の叫びであったり。真の姿をちらつかせながら思わず口にする言葉の説得力は、そこまでに積み上げられた物語あってこそ。
だがその一方で、その言葉のみを聞いても日常を顧みて等身大に胸に響く。それこそが「マハーバーラタ」という大叙事詩の懐深い大きさというものなのだろう。
悪の華として君臨する鶴妖朶(ヅルヨウダ、七之助)は魅力的なキャラクターだ。生身の女性でない歌舞伎の女方による造形が大胆さと繊細さを増幅させ、ひたむきで高潔な主人公の前に立ち現れて彼の人生に大きな影響を及ぼしていく。
主人公の迦楼奈(カルナ)は、戦いを止めさせるという使命を背負って太陽神(たいようしん、左團次)と人間である汲手姫(クンティ、梅枝、後に時蔵)の間に生まれた子。その使命を全うすべく自分の生きる道を探し求め、時に神に翻弄されながら、戦いに身を投じていく。
人生の矛盾の中で迦楼奈(カルナ)はある答えを見つけ、阿龍樹雷(アルジュラ)との戦いは終焉を告げる。
すべてが終わる直前、迦楼奈(カルナ)は自らの判断は正しかったのか、自分の生まれてきた意味をも父に問う。物語の軸を貫く潔くも美しい魂の彷徨。
迦楼奈(カルナ)の言葉に、劇場中が静まり返った。
戦いは終わり、人間たちの顛末を見届けた神様たちもまたある結論へと到達する。
こうして神々が集う光景は物語の始まりでもあった。
そしてその幕開きは荘重かつきらびやか。さながら『仮名手本忠臣蔵』の大序のごとき趣きだ。
百合守良王子(ユリシュラ、彦三郎)、風韋摩王子(ビーマ、坂東亀蔵)、阿龍樹雷王子(アルジュラ)、納蔵王子(ナクラ、萬太郎)、沙羽出葉王子(サハデバ、種之助)の五兄弟の名のりは『白浪五人男』ふうの様式美のなかで。
風韋摩が森で魔物に出会う場面は所作事。
歌舞伎ファンなら誰もがよく知るお馴染み名場面の安心感に、パーカッションをとり入れた音楽が新鮮な風が吹き抜けて、不思議に心地よいバランス。
未知なる古の印度へと想像力を駆り立てる『マハーバーラタ戦記』。平成の通し狂言として、まさに今、呼吸を始めたところである。
撮影=松竹写真室