取材・文=清水まり
歌舞伎座の楽屋の、奥のほうに位置する稽古場のドアをそっと開けると、耳に飛び込んできたのは、その場所においてはまったく意外な、だけど不思議に心や身体に染み入って来る音楽。そして今度は竹本が語り始め…。
ここで行われているのは10月に上演される新作歌舞伎『極付印度伝 マハーバーラタ戦記』の稽古。目の前では汲手姫が太陽神の子を授かる場面が展開されている。「マントラ」という単語が、歌舞伎のせりふのなかにしっくりと馴染んでいることに気づく。
最初に耳にした音でも感じたことだったが、新鮮でありながら、太古の昔からそれが当たり前であったかのような不思議な感覚。この舞台はきっと素敵なものになる。直観でそう思った。
神様をどう演じるのか、それは取材の場でたびたび話題に上がっていたことだ。だが、それがいかにたいした問題ではないということはすぐに判明した。歌舞伎には、実にさまざまな時代の、あらゆる階級の、時には海を越えた国で、そして人間を超えた存在までをも、表現し続けてきた歴史があるのだ。
神は一線を画した存在として、姫は姫らしく若武者(と、表現していいのかどうか定かではないが)は若武者らしく、庶民は日常を想起させるような風情を身にまとって、役の人物として稽古場に立ち現れている。
そこに集まった演技者たちが、その身体から無言で発するものの質の高さは、染め抜かれた柄の違いこそあれ同じフォルムの簡素な稽古着だからこそ、より一層鮮明に映る。
客席の正面に相当する位置に座しているのは演出の宮城聰氏。その宮城氏と演じ手の間で時折ちょっとした確認はなされるものの、ほぼスムーズに進んでいく。ここに至るまでの積み重ねの成果なのか、歌舞伎独特の稽古のあり様ゆえなのか。おそらく両方なのだろう。
稽古場のドアにはガラス窓があり、ドアの外はちょっとした溜まり場となっている。窓の向こうに目を向けると、立廻りや踊りの振りを稽古している影がいくつも見える。台本を手に何やら話している様子も見受けられた。
そこにいる誰もが自分のなすべきことを着実に全うしている。
台本を繰りながら稽古の進行を見守っていくと、大きな変更こそないものの、ところどころ修正が加えられていることに気づかされる。歌舞伎のせりふとして発したとき、あるいは対話の流れとして、より自然な言い回しや語順に変わっているのである。
読んでいるだけではわからない、体感に基づく修正は、演劇として呼吸をし始めたことの証。
大きな戦いが繰り広げられる大詰には激しい立廻りの場面が盛り込まれている。戦場でのいくつもの戦いはそれぞれにカラーがあり、衣裳をつけ、大道具の前に立ったときにどれほどの臨場感を持って目の前に立ち現れるのだろうかと思うと胸が高鳴る。
こうした場面は特にいえることだが、全編を通して感じるのは音楽が芝居に寄り添っていることだ。竹本、長唄、囃子方、いつもの歌舞伎の音に、ワールド・ミュージックといえばいいのだろうか、さまざまな民族の間で受け継がれてきた打楽器の音が混じり合い、多彩な音の世界を紡ぎ出しているのだ。
稽古が一段落したとき、「ねえ、**のテーマ音楽もあったほうがいいんじゃない?」という声が上がった。そして急遽、つくることに。その流れもごく自然。
しなやかで柔軟な雰囲気のなかで、『マハーバーラタ戦記』はこうしている今も刻一刻と熟成している。
撮影=加藤 孝