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扇雀がゲストトークに登場「平成中村座inしたコメ」

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左より、冨士滋美浅草観光連盟会長、中村扇雀、いとうせいこう「したまちコメディ映画祭in台東」総合プロデューサー

 9月16日(火)、浅草公会堂で「平成中村座inしたコメ」と題し、シネマ歌舞伎『法界坊』が「第7回したまちコメディ映画祭in台東」で上映されました。その上映前のゲストトークに中村扇雀が登場、作品や平成中村座について語りました。

 「いとうせいこうさんが着物とうかがい、映画祭のセレモニーですから、一重の紋付で来ました」と、気合を見せた扇雀。それもそのはず、上映されるのは平成中村座の記念すべき第一回の演目で、7回も上演された『法界坊』。しかもそのうち3回を占める浅草での公演の一つ、2008年11月公演の舞台を撮影したシネマ歌舞伎の上映とあって、思い出話は尽きません。

扇雀がゲストトークに登場「平成中村座inしたコメ」

平成中村座が浅草に建つ!
 「初めて平成中村座が隅田公園に建ったとき、そばにある待乳山聖天様へ皆で成功祈願に行きました。勘三郎の兄が法界坊の格好をした写真をアラーキーさん(荒木経惟)が撮り、また、浅草で行われた東京時代祭の行列の先頭を切って法界坊が練り歩いたんです。でも、坊主になりきっていたので、誰も勘九郎さん(当時)とは気づかず、本人は寂しかったと後で言っていました」

 学生時代に舞台を離れていた扇雀が歌舞伎に復帰し、「25歳くらいのときに抜擢してもらい、以来、共演させていただきました。『きらら浮世伝』という横内謙介さんが書いた芝居に二人で出たんですが(1988年3月)、そのときに、“中村座をつくりたい”と言っていました。金丸座(旧金毘羅大芝居)があまりにも素晴らしかったのでそう思ったようです」。

 この話には後日談がつき、「渋谷・コクーン歌舞伎のパンフレット(1996年8月)に、横内さんが“まだ実現していない”と書いたものだから、勘三郎の兄の負けず嫌いに火がついて、2000年に実現の運びとなったわけです。平成中村座のテントが建ったときには、勘三郎の兄は泣いていましたね」と、平成中村座と故人を懐かしみました。

 平成中村座の実現に協力した一人でもある浅草観光連盟の冨士滋美会長も、「このシネマ歌舞伎の撮影のときは、浅草寺本堂再建50年で“浅草奥山風景”を実施したんです。『法界坊』上演時は、呼び込みもやりたい放題でしたが、前月の判官切腹の場(『仮名手本忠臣蔵』「四段目」)は、その場面に合わせてしーんと静かにやっていました」と、やはり思い出があふれてくるようでした。

見たことのない法界坊の誕生
 「『法界坊』は串田和美さんの演出ですが、串田さんはアングラ演劇の人なので、反伝統というか革新的で、僕らとは真逆のところにいる人です。その串田さんが、十七世勘三郎さんのビデオを見て本を読み直し、『法界坊』を掘り下げていった結果、僕らの知っている『法界坊』とはまったく違うものになりました」。人を殺し、気持ちが高ぶり、狂気に走る…、殺人鬼に変貌する法界坊は想像を超えたものになったそうです。

 扇雀の演じる永楽屋娘お組については、番頭正八に言い寄られるところで「亀蔵さんは事前に何も言わず、毎日やり方を変えて襲ってきたので、本当に怖かった」とか、要助(勘九郎)とお組が大事な話をしている後ろで勘三郎と笹野高史が笑いをとり、お客様が自分たちを見てくれないのがつらかったなどの話も飛び出しました。

 「でもだんだん、お組ならこうする、と自然に動きが出てくるようになった」と串田演出の成果とともに、「お客様がすばらしくて自分がワンランクアップしたような気になれる小屋でした」と、平成中村座が持つ独特の空気感についても触れました。これには、進行役のいとうせいこうも「型を超えて芝居をしていたように思いました。芝居のせりふがメッセージとして心に突き刺さる、そんな感情が沸き起こる小屋でしたね」と共感をみせました。

 平成中村座の公演中はできるだけ浅草で食事をするようにしていたことや、訪れた店で「今日見てきたよ」と言われたのが本当にうれしかった…、と懐かしい話がいつまでも続き、楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。

 トークの後、平成中村座のお茶子さんたちの呼びかけでお弁当を食べたり、買い物をしたりと幕間を楽しんだお客様は、ゆったりとシネマ歌舞伎『法界坊』を鑑賞。なお、«月イチ歌舞伎»として10月18日(土)~10月24日(金)、全国27館で『法界坊』が上映されますので、詳しくは シネマ歌舞伎の公式サイトをご覧ください。

扇雀がゲストトークに登場「平成中村座inしたコメ」

2014年09月17日

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