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市川右近が「歌舞伎夜話」で語った、これまでとこれから

市川右近が「歌舞伎夜話」で語った、これまでとこれから

 

 

 6月7日(火)、「ギャラリーレクチャー 歌舞伎夜話(かぶきやわ)」に、市川右近が登場しました。

 歌舞伎座「六月大歌舞伎」第一部で、長男 武田タケルが初お目見得。木挽町ホールにお集まりのお客様からも「おめでとう」の声が飛び交い、今宵の歌舞伎夜話は右近のさわやかな笑顔で始まりました。「5歳で初舞台をと、師匠(猿翁)が以前から勧めてくださっていました。親としては、チラシに名前が出たあたりから、ドキドキが止まらなかったです」。

 

 「彼は、『ワンピース』で非常に舞台への興味がわいたようで…」。4時間を超える大作にも集中力を切らすことなく、何役も真似して“ひとりワンピース”を展開していたとか。「僕の勤めた白ひげの元が知盛だということも、(今月の公演で)彼の中ではつながってきているようです」。子役としてはせりふも多い安徳帝、厳しくも愛情あふれる特訓の様子も明かしましたが、「『タケルって声がかかった』とか、『拍手があった』とか、自分でしっかりわかっているようです」。

 

市川右近が「歌舞伎夜話」で語った、これまでとこれから

 そんな右近が振り返ったのは、8歳で迎えた自身の初舞台(昭和47年6月南座)の思い出。「昼の部で師匠の『天一坊』の子役を勤めたのですが、そのときの切が『吉野山』。自分の出番が終わってから後に師匠となる猿翁(当時三代目猿之助)の忠信を毎日見て、帰りの京阪電車ではすっかり“狐”になっていました」。夜の部の「川連法眼館」、そして『黒塚』も印象深かったそうで、「当時、師匠に『黒塚』をやってみたい、と言ったら、ちょっと答えに困っていました。小学生にしては渋いと思ったのかな…」と、笑いを誘います。

 

 憧れの猿翁(当時三代目猿之助)の部屋子となり、高校生のときにヨーロッパ公演に同行。言葉の通じない国で、嵐のようなカーテンコールを浴びたことで「歌舞伎ってすごい」と気づき、また恐怖心も芽生えたと言います。「裸を通り越して、命の奥底まで見られているような気分になる。師匠はよく、『もっと伸びてくれよ』とおっしゃいました。『盆栽だって伸びて初めてカットできるんだから』、と」。

 

 一門の若手のために結成された「二十一世紀歌舞伎組」、その中心となり活躍した右近ですが、思い出すのはやはり師からの言葉。「当時、歌舞伎が全然わかっていない、言ってみれば“楷書”の書けない自分に悩んでいると、あるとき呼ばれまして、『今度、あなたたちに古典をやらせるから』という話になりました。常に見ていてくださっていた。見守ってくださっていたことがありがたい」と語ります。

 

市川右近が「歌舞伎夜話」で語った、これまでとこれから

 来年1月に同時に、41年間名のった「市川右近」をタケルに譲り三代目市川右團次を襲名。初世右團次の父、四世市川小團次のケレン芸や、二世右團次が関西歌舞伎で活躍したことを挙げ、「ご縁を感じます。私も関西出身ですし、しかも“右”つながりです。澤瀉屋の芸を未来に紡いでいくことが、僕の一生の使命。屋号は変わりますが、僕が師匠の弟子だということも、僕の使命も、生涯変わることはありません」ときっぱり。今後も澤瀉屋の精神や魂を広く伝えていきたい、と熱く語りました。

 

 息子を役者に育てていくことについて。「息子が生まれたことによって僕が育てられていますね。『連獅子』も勤めていて心持ちが変わりました」。人の親でよかった、と語り、深い情愛を感じさせた右近。親子の新しい一歩に、温かい拍手が贈られました。

 

※澤瀉屋の「瀉」のつくりは正しくは“わかんむり”です。

2016/06/11