歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



       
前面に錠つきの目安箱
前面に錠つきの目安箱。小さなエフ字型の鍵で将軍だけが開けられた
語感の悪い「ひ」は「万」組、「へ」は「百」組などに変更された
語感の悪い「ひ」は「万」組、「へ」は「百」組(右端の纏)などに変更された
 

実際は大岡越前が裁いていない「大岡政談」

 大岡越前、遠山の金さんといった、テレビや映画でおなじみの江戸の町奉行は、現在の東京都知事、警視総監、消防総監、さらには東京地方裁判所、最高裁判所の判事を兼務するほどの責任重大のポストでした。大変な激務であったため、過労死する奉行もかなりいたようです。

 大岡忠相(ただすけ)は、1716年(享保元年)の吉宗の将軍就任にともない江戸町奉行、越前守となりました。吉宗の「享保の改革」を推進した一人で、町火消を制定し、町火消「いろは48組」を編成。目安箱や投函された意見を受けた小石川養生所の設置、株仲間の公認、町民の自治の充実など、多くの実績を残した人物です。
  忠相のゆき届いた自治により、江戸の町の治安はよくなり、社会は安定しました。彼は後に寺社奉行にもなり、1748年には、1万石を領して大名になっています。町奉行から大名になったのは、江戸時代を通じて忠相一人だけだそうなので、彼は大変な出世をしたことになります。

 そんな偉業を残した忠相は大衆からも支持されたのでしょう。彼の名裁きは「大岡裁き」として伝えられ、「大岡政談」となって講釈や写本で、大衆に親しまれました。しかしながら、現代に伝えられているそのほとんどが、実際には忠相は関わっておらず、事実を伝えてはいないそうです。