歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



『けいせい浜真砂』の石川屋真砂路(平成20年1月歌舞伎座)
撮影:松竹株式会社
『妹背山婦女庭訓 御殿』のお三輪
昭和39年9月、四代目中村雀右衛門襲名時に撮影
撮影:2点とも松竹株式会社
歌舞伎座さよなら公演吉例顔見世大歌舞伎通し狂言 仮名手本忠臣蔵平成21年11月1日(日)〜25日(水)
上演時間
演目と配役
みどころ

受け継ぐ伝統
 〜歌舞伎座とともに生きてきた俳優人生

 中村雀右衛門さんが歌舞伎座本興行の舞台を勤めるのは、平成20年の初春興行に上演された『けいせい浜真砂』以来2年ぶりです。『女五右衛門』という通称のある石川屋真砂路。桜満開の南禅寺山門の上で悠然と景色を眺める真砂路を演じる雀右衛門さんの姿は風格と気品に溢れ、満開の桜がその美しさを際立たせていたことを皆さんも覚えていらっしゃることでしょう。

 「本興行はしばらくお休みしておりましたので、久しぶりの舞台に少々緊張しております(笑)。歌舞伎座は私にとってホームグラウンドと言える劇場ですので、さよなら公演の最後のお正月興行に出演できてとても嬉しいです」

 大谷廣太郎を名乗って初舞台を勤めたのも昭和2年の正月興行でした。

 「『菅原伝授手習鑑』を子供用に書き直した『幼字劇書初(おさなもじかぶきのかきぞめ)』で、私は桜丸にあたる八重丸を勤めました。菅丞相は父・六代目友右衛門、松王丸にあたる千代童が梅幸のお兄さん、梅王丸にあたる春王が九朗右衛門さんでした。きれいな着物を着せてもらって、舞台に登場するとお客様がわぁっと喜んでくださるのが嬉しかったですね。毎日楽しく勤めさせていただいたのをよく覚えています」

 華やかな舞台、当時の歌舞伎座は昭和の歌舞伎を支えた名優たちがずらりと顔を揃え、毎日が大賑わいでした。折しも東京では歌舞伎座をはじめ新橋演舞場、明治座、帝劇、東劇といった複数の大劇場がこぞって興行をしており、幼き日の雀右衛門さんは子役として劇場を掛け持ちで出演することもあったと言います。名優たちと舞台をともにする廣太郎少年は“天才子役”と呼ばれるようになりました。

 「子役をする子供が少なかったおかげで、当時のそうそうたる名優の方々と共演させていただく機会に恵まれました。十五代目市村羽左衛門のおじさん、六代目尾上梅幸のおじさん、六代目尾上菊五郎のおじさん、初代中村吉右衛門のおじさん、二代目市川左團次のおじさん…皆さんとても芸が大きくて、子供の私は夢中になって舞台に見入っておりました。当時は立役になるつもりでしたから、熱心に見ていたのはどちらかと言えば立役の方々の舞台です」

 雀右衛門さんは昭和15年、第二次世界大戦の戦況が日に日に緊迫する中、徴兵検査で合格となり外地へ6年間出征。復員の翌年、三越劇場での公演から 本格的に女方を勤め、『毛谷村』のお園が大絶賛され、昭和23年3月、七代目大谷友右衛門を襲名しました。

 女方へと転向した雀右衛門さんの芸は「新感覚の女方」として注目されました。その中で改めて、女方芸の芯を模索し続ける意志を強く誓ったのは昭和39年9月、歌舞伎座における四代目中村雀右衛門襲名ではないでしょうか。

 「先代のご子息であり、本来ならば四代目を継ぐはずだった中村章景さんとは、若い頃からたいへん親しくさせていただいておりました。章景さんが日中戦争に出征して亡くなり、京屋のおばさん(三代目雀右衛門夫人)から襲名のお話をいただきました」

 襲名披露狂言では『金閣寺』の雪姫と『妹背山婦女庭訓 御殿』のお三輪を勤めました。

 「京屋のお弟子さんから先代の色々なお役を教わって、三代目の型を復元いたしました」

私と歌舞伎座

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