歌舞伎いろは

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愛用の逸品:田中さん流・特製お裁縫セット

田中さんのお裁縫セット。右端の太い針が「帆さし針」。糸切りばさみは、「常吉」製。切れ味が悪くなったら研ぎに出すが、それを重ねていくと刃(は)が痩せて使えなくなる。左端の丸い玉がついた糸は、引抜きのしかけ糸。

 私は現場(楽屋で衣裳を着せたり脱がせたりするなどの仕事)は10年前くらいに引退しているんですが、この道具を持ち歩いてよく仕事をしましたね。普通は針山やはさみは箱に入れてまとめるんですが、私は布で作ったほうがいいと思ってね、衣裳の端切れを集めて、仕立て屋さんに縫ってもらったんですよ。真ん中に四角い大きな針山を作ってもらってるんですが、針がさびないように毛くず(人髪)を詰めてるんですよ。毛くずは床山さんからもらってきましたよ。

 針山の裏側には糸やスペアの針を入れるようになっています。糸は絹糸の赤、白、黒の3色を持っていれば、だいたい間に合うもんなんですよ。針は人によって好みがありますが、私は「中ぐけ(ちゅうぐけ)」というちょっと太めの針が好きで、ほとんどこれを使っています。この針は織物などの硬い布を縫うのに便利。それから、引抜き(※1)のしかけの糸を縫うときは、糸がとっても太いですからね、「帆さし針」という大きな針を使います。これは、大口袴(※2)なんかを縫うときにも用いますね。

 そうそう、私がこの仕事に入った最初のころ(昭和30年ごろ)は、炭のアイロンをまだ使っていましたね。鉄製だから重くてね。それに炭がはぜることもあって大変でしたよ。

 衣裳を作ってくれる職人さんも、だんだん技術のある人が高齢化してきて、あまり明るい話題がありませんが、昔よりもよくなった面もあります。早替りなどでは、マジックテープを使うようになってからは、随分効率がよくなりました。それまでは、銅線を焼いて強度を高めて、それに布を巻き付けたものを使っていたんですよ。2本の銅線をぐりっとからませて、マジックテープのように接合させていたんです。これだと、ある日突然、銅線が切れちゃったりすることもあって。「お染の七役」(※3)とか苦労してましたね。

※1 引抜き(ひきぬき):衣裳の仕掛けの用語。舞台で演技している途中で、衣裳を一瞬で変化させる演出。あらかじめ異なる衣裳を重ねて着込み、衿(えり)や袖、裾(すそ)などを、末端に大きな玉のついた糸で荒く縫っておく。舞台上でその玉(糸)を引き抜いて、上の衣裳をはぎとり下に着ていた衣裳を効果的に見せる。

※2大口袴(おおくちばかま):厚手の布地でできた幅の広い袴。能の装束を真似たもの。『勧進帳』の弁慶などがこれをはいている。

※3「お染の七役」:『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』の通称。一人の演者が、7役に早替りする演出が見どころ。

 
   

縫物をする田中さんの手。左の中指に指抜きをして、巧みに針を運ぶ(田中さんは左利き)。

 

衣裳につける紋は、専門業者の紋屋さんに作ってもらう。歌舞伎では、女方は1寸、立役は1寸5分と大きさが決まっているそうだ。上は玉三郎丈の裏紋「のし菱」、下は守田座の座元の勘弥丈の紋「丸にかたばみ」。

 

「ものさしは、手渡ししたら縁が切れると言われているんですよ。だから相手に渡す時は投げろって言ってます」。衣裳の世界には、奥ゆかしいしきたりが今も息づいている。

 

ちょっと昔の歌舞伎 モノからひもとく想い出あれこれ

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