歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



淡紅色の万成石による重厚な外観。(日比谷通り、日比谷公園前から撮影)。写真右にあるのが帝国ホテルで、日比谷通りを写真左方向へ進むと皇居前に出る。

大手企業の本社ビルが集まる日比谷のOL、サラリーマンたちの憩いの場となっている日比谷公園。広大な敷地の豊かな緑と噴水に心が癒される。

美しい観光名所の真ん中に出現

立地は地下鉄「日比谷」駅のA13 出口の前。雨の日でも安心のとても便利な立地。日比谷通りの向こうには戦後間もなく開店した、有名なフラワーショップの日比谷花壇がある。

通りから建物内へ至る足元には長谷川路可氏による大理石モザイクが施されている。1階にはカフェ・ア・ラ・ティエンヌ(写真)が、地下1階にはレストランの春秋ツギハギがテナントとして入っている。

玄関ホールでは、ギリシア的な柱、白大理石の床、大きなアルミグリル照明、さらに正面奥の日本のガラスアートの先駆者岩田藤七による鮮やかなコロラート(彩色ガラス)が目をひく。

日生劇場のある日本生命日比谷ビルが竣工した1963年(昭和38年)当時の写真。手前の黒っぽい建物が帝国ホテル。

このころの帝国ホテル本館はアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトが設計した建物だった。ライトが設計した帝国ホテルの旧中央玄関部分は終戦後の大改修を経て、1967年に閉鎖後、愛知県犬山市の明治村に移築されている。

 もともとは東京湾の浅瀬で日比谷入江といわれ、周辺はのどかな漁村であったこのあたり。江戸時代には埋め立てられて大名屋敷が並んでいました。明治になって、外国賓客のための迎賓館、社交場が必要となり、1883年(明治16年)7月、明治政府によって鹿鳴館が建てられました。場所は日比谷通りに面した帝国ホテルの隣。白煉瓦のネオ・ルネッサンスを基調に、建物の要所にはインドイスラム風の意匠を凝らした、西洋と東洋の折衷様式の建物だったそうです。

 日本初の西洋式ホテルである帝国ホテルは、この鹿鳴館の関連施設としての役割を担う目的で計画され、1890年11月に開業しました。フランク・ロイド・ライトによる著名な帝国ホテル旧本館(当時はライト館と呼ばれていました)は開業から33年後に建てられたものです。白煉瓦の鹿鳴館とライト設計の黄色い煉瓦と大谷石の調和が見事な帝国ホテル。この2つの建物が隣り合って建っていた日比谷という地は、まさに日本の上流階級の象徴のような街でした。

 鹿鳴館は1894年(明治27年)6月の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられ、旧鹿鳴館の建物も1940年(昭和15年)に取り壊されました。しかし、日比谷はその後も発展を続け、劇場(※)・ホテル・大企業の社屋が連なり、日本を代表するビジネス街となりました。

 西側には日比谷公園、南側には帝国ホテル、という日比谷の一等地に建つ日生劇場。観劇に訪れた際には、緑が豊かで広大な日比谷公園はもちろん、少し足を伸ばして、皇居や東御苑を観光、散策するのもおススメです。

※日生劇場の隣は東京宝塚劇場、その隣は旧芸術座のシアタークリエ。そして日生劇場前の日比谷通りを500mほど皇居方面に行くと帝国劇場がある。

平成 劇場獨案内

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