「ニューヨークを飲み込んだアンチヒーロー」第1回

ニューヨーク、中村座の噂。

 ニューヨークに着きタクシーに乗ると、運転手に旅の目的を聞かれた。

 リンカーンセンターで上演されている歌舞伎を日本から観に来た。そう言うと、すかさず彼は「知ってるよ。とても評判がいいんだってね」と嬉しそうに答えた。

 ニューヨーカーは面白いことに貪欲だ。小さなマンハッタンの中で、何が今話題になっているのかを決して見逃さない。この街で勝負するには、ブロードウェイの有名俳優でも外国人でも条件は同じ。いかに観客の心を震わせることができるのか----それが問題だ。

「今度は、また試されている」

 7月3日。ニューヨークへ渡る2日前に東京で行なわれた記者会見で、中村勘三郎はポツリと語った。

 襲名前の中村勘九郎が、リンカーンセンターの広場に建てたテントの劇場で『夏祭浪花鑑』を演じたのは2004年。夏祭りの狂乱にのせて、己の仁を貫くために義父を手にかけた男の懺悔と生への執着が迸る。目の前で俳優が発散する気迫に、ギリギリの生命感に、ニューヨークの観客は惜しみない拍手を送った。会場中が酔いしれた祭りの熱狂から、3年。

 世界各国の舞台芸術を招いて行なわれるリンカーンセンター・夏のフェスティバルのパンフレットは、トップに歌舞伎の公演を大きく掲載した。

「3年前は最後のページで写真も小さかったのに、ビックリしますよね」

 パンフレットだけではない。『夏祭浪花鑑』で中村勘三郎が演じた団七の狂おしい眼が、フェスティバルのメインビジュアルとしてデザインされ劇場の垂れ幕やニューヨーク市内の劇場中で配られる演劇情報誌の表紙にも使われる。

「毎回、やってみなきゃ分からないことをやっているので、観る方がどういうふうに受け入れてくださっているのかドキドキしている。前回は俳優も演出も全員が一生懸命やったから、それが評価に結びついたのかなと思うけど、この前のことは忘れて、今回は大勝負を賭けに行く」

 記者会見で語る中村勘三郎の表情はにこやかだが、時おり厳しい眼差しがのぞく。見えない大きな何かに挑む覚悟の眼差しだ。

 既存の評価には安心しない。毎回自分を裏切り、ドキドキしながら演り続ける。破るべきレコードは過去のものではなく、自分の中にある。中村勘三郎の終着点のないチャレンジ精神に、挑戦と成功を胸に抱くニューヨークの人々はきっと心揺さぶられるのだろう。

 東京での記者会見の後、日本での最終稽古を見た。今回はクライマックスとなる大喜利「隅田川の場」に新しい演出が施される。大道具の転換や照明機具に制限がある中で編み出された、書き割りを使うリズミカルな立ち回りが何度も繰り返される。書き割りを持ちながら走り回る俳優たちに、何度もタイミングや立ち位置の指示をする串田和美監督。立体的な視覚効果を出すベストの動きを探る中村勘三郎。

 コクーン歌舞伎が終わってから1週間も経っていない。間に合うのだろうか。

 最後に観た緊迫感は、キャブの運転手が口にした中村座の評判で安堵に変わった。中村勘三郎の大勝負がニューヨーカーの心を確実に震わせている。夏の日差しを浴びるフロンドガラス越しに、ニューヨークの街が広がった。

富樫佳織(放送作家)