「ニューヨークを飲み込んだアンチヒーロー」最終回

アンコールが3回

 ニューヨーク時間、7月22日。22時15分。

 エイブリー・フィッシャー・ホールでは、おそらくニューヨークでも、ロンドンでも、もちろん日本でも!めったにない大事件が起きた。

 『法界坊』の千秋楽。大喜利の舞踊「双面水照月」は女形の繊細な踊りと合間に覗く邪悪な法界坊の表情、その巧みな演じ分けが観客を魅了する。

 そしてクライマックス。鬼の霊魂から飛び出したのは、今回特別に作った「黒い蜘蛛の糸」。とぐろまく悪が解き放たれる様を描くための演出。続いて純白の蜘蛛の糸が飛ぶと、悪霊の怨念が浄化されたことを観客は知る。バッタリ!派手な附が劇場に響き、俳優も観客も、気持ちがひとつになって幕切れ。

 そして、カーテンコール。興奮した観客が立ち上がってブラボー!と叫ぶ。ここまではいつも通りだ。だが千秋楽の日は、様子が違った。

 カーテンコールが終わり一旦幕が引かれたというのに、観客は帰ろうとしない。それどころか、いっそう熱狂的な拍手が続いた。

 鳴りものの賑やかな音が響くと、待ちかねたとばかりに歓声があがる。ステージに現れたのは俳優だけではない、大道具や衣裳、床山、そして現地でのステージ設営に協力してくれた地元のスタッフたち。

 荒事の衣裳に身を包んだ中村勘三郎や中村橋之助、黒衣に扮した演出の串田和美とともに、Tシャツにアポロキャップをかぶったアメリカ人スタッフが満面の笑みをたたえて中村屋の紋が描かれた旗を振っている。その時だ。

 一階客席の観客たちが拍手をしながら、吸い寄せられるように舞台へどんどん近づいていく。ひとり、またひとり・・そして大勢が、舞台の前で芝居を作り上げた全員に惜しみない感情をぶつけようとしていた。

「いつものカーテンコールとは違うエネルギーを感じました。ただ、良かったですよ、という拍手ではなく、拍手をする時間の中でいろんな感情が観客の中に湧き出て反芻されているんだろうなと感じました」

 演出の串田は当日の熱狂をそのように振り返る。

 再び幕が閉じる。それでもまだ観客は去ろうとしない。むしろどんどんステージの前に集まってくる。そして3度目のカーテンコール。大きな歓声が沸いた。中村勘三郎はいつものように胸の前で手を合わせ、そして、いつもより深く深く観客に頭を下げた。串田和美さんも、他の俳優たちもニコニコしながら客席のひとりひとりに手を振る。笹野高史さんは、その熱狂をビデオカメラにおさめている。ブロードウェイでヒットを飛ばすステージでも、アンコールが3回というのはめったにない快挙だという。

 2時間45分間。ひとつの芝居を通して人と人との間に生まれた感動やリスペクト、いや、どんな言葉も当てはまらない高まった感情がぐちゃぐちゃになって劇場に溢れる。その光景を見ていた私は、知らないうちに涙が溢れて止まらなくなった。

「劇場とは観ている人自身が自分を解放する場だ」と演出の串田和美は語る。「芝居を観ながら『あ、隣の人が感動してる』とか『あの人も泣いてる』ということにまた感動する。人は辛いことも楽しいことも分かち合う生き物なんだと確認するのが劇場なんでしょうね。そして歌舞伎の小屋っていうのはその感じを受けるように設計されているよね」

 二度目のニューヨークに賭けた大勝負。コメディを選ぶことでブロードウェイに挑み、そして初演の台本と串田和美という演出家とともに先代の名優たちに挑戦した「ニューヨーク版 法界坊」。平成中村座の芝居。それは現代を生きる人間の肉体と魂を通して、生きていくのに逃れられない痛みと、それを癒し乗り越える力を心に刻んでくれる。

富樫佳織(放送作家)