歌舞伎いろは

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『東都繁栄の図 猿若町三芝居図』歌川広重画 嘉永7年(1854年)3月。角切銀杏の座紋の櫓(やぐら)は「中村座」を示す。芝居小屋の隣には芝居茶屋が軒を並べ、まさに江戸三座が賑っている様子が描かれている。錦絵は2点とも国立国会図書館蔵。無断転載禁。

観て食べて楽しんだ、江戸の芝居見物

 江戸時代の人々にとって格別の楽しみだったという芝居見物。実際にはどのようなものだったのでしょうか。大和郡山藩の二代藩主を務めた柳沢信鴻(のぶとき)が残した観劇記録『宴遊日記別録』に、芝居見物の「食」のことが詳細に描かれていました。

 柳沢信鴻は五代将軍徳川綱吉側近の柳沢吉保の孫で、隠居した安永2年(1773年)から13年間の風雅な趣味三昧の暮らしを『宴遊日記』13巻26冊に残しました。その中に119日の観劇記録があり、それをまとめたものが『宴遊日記別録』です。

 信鴻は、吉保の下屋敷として名を馳せた六義園を隠居所として使っていました。芝居見物の日には文京区駒込にある六義園から、当時芝居小屋のあった葺屋(ふきや)町や堺町(現在の中央区日本橋人形町あたり)へ、2時間くらいをほとんど徒歩で通ったようです。食事記録は49日分あり、朝早く出発した日は朝食も食べたようですが、芝居茶屋では昼食、夕食をとっていました。芝居の終演は午後5時~7時ごろで、夕食は終演後に茶屋でとっていたようです。

 献立は、汁、煮物、焼物、漬物に主食という組み合わせで、ときにはなますや和え物(あえもの)が加わりました。また材料に使われたのは魚のほかに、意外にも肉もよく使われていました(肉はとり肉ではなく獣肉だったようです)。主食は白飯だけでなく、茶飯、茶漬け、そばなども食べており、『助六』に登場する「福山のかつぎ」の「福山そば(※)」からそばの出前もとっていました。

 芝居小屋の辺りは芝居町といい、芝居関係者や茶屋、食事処などで賑わい、芝居見物だけでなく、様々なおいしいものを食べる楽しみもありました。お金に余裕のある見物客は、まずは茶屋に部屋をとり、そこから芝居見物に出かけて幕間に茶屋に戻って料理を食べ、着替えをして芝居を観に戻る。桟敷には水菓子やまんじゅうを運んでくれるなど芝居茶屋はサービス満点で、1日かけて芝居を楽しんでいたようです。

※「福山そば」
『助六』に登場する「福山のかつぎ」はうどんを運んでいるが、「福 山」は市村座の隣にあったそば屋の名前


『東都高名会席尽 万久・髭の意休』。意休の背後には、右に幕の内弁当が、左に料理屋の「万休」が描かれている。『東都高名会席尽』は、三世歌川豊国が当時の人気役者を描き、背後に歌川広重が料理屋の店先と料理を描いた50枚の揃物。

歌舞伎座の「食」

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