歌舞伎いろは

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『与話情浮名横櫛』。三世歌川豊国画(嘉永6年 1853年)。早稲田大学演劇博物館蔵。
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初夏の海で出会い恋に落ちたふたりのメロドラマ

 江戸時代、庶民だけでなく良家の子女もお供を連れて潮干狩りを楽しみました。男性のお目当てはアサリやシジミではなく、日頃は高嶺の花の大店のお嬢様や高貴なお姫様を眺めることだったともいいます。キラキラと輝く初夏の太陽、若く華やかな女性、収穫にわき上がる歓声と熱気。江戸っ子ならずとも気分が高揚してきそうで、なんだか恋の予感さえ──。

 『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』の主人公、与三郎とお富は、木更津海岸の潮干狩りで出会い、恋に落ちます。すれ違ったお富の美しさに見とれて、ぼーっと見送る与三郎は、羽織がずり落ちてしまったことに気づきません。「羽織落とし」は、主に二枚目が美女に魂を奪われるシーンでの歌舞伎の演出のひとつですが、この「木更津浜辺の場」のそれは、ことに有名です。

 さて、お富はお富で与三郎の二枚目ぶりにうっとりと振り返るほどですから、まさに美男美女の運命的な邂逅(かいこう)。ですが江戸の大店の若旦那の与三郎は世間知らずのぼんぼんで、一方お富は土地の親分、赤間源左衛門の妾です。人目を忍ぶ秘密の恋の行方は、平坦であるはずもなく──。見初め、引き裂かれ、再会し、また別れ、三たび巡り会うふたり。9幕30場という大長編は、ひところ話題の韓流ドラマも顔負けのメロドラマです(現在、木更津の見初め、赤間別荘の逢い引き、源氏店の再会の三場が主に上演されます)。

 じつはこの物語、全くのフィクションではありません。木更津市の鳥居崎公園には、与三郎とお富が出会い逢瀬を楽しんだとされる「見染め松(別名、袖掛の松)」があります。また、「切られ与三郎」のモデルとなった人の供養墓がある「吉祥山光明寺」や与三郎の相棒である「こうもり安」のお墓がある「鶏頭山選擇寺」も。機会があれば、与三郎とお富が出会った木更津の海で潮干狩りを楽しみがてら訪ねてみてはいかがでしょう。