歌舞伎いろは
【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。


11代将軍徳川家斉の時代が大奥の全盛時代でした。女性の数は1500人を超えて、家斉は40人の側室を持ち、55人の子供がいたと言われています。
大奥は、将軍の寝所でもある「御殿向き(ごてんむき)」、大奥の事務室でもある「広敷向き(ひろしきむき)」、奥女中の住居「長局向き(ながつぼねむき)」の3区画で基本的に構成されていました。

其の一 秘密に包まれた大奥

 江戸の中心にそびえる江戸城は、現在の皇居の数倍というとても大きな城でした。その広大な江戸城の核となる部分が本丸であり、その本丸のおよそ半分を大奥が占めていました。原則として男子禁制、数百人から1000人という数の女性たちが暮らし、普段は外出もできないという世界は、今も昔も人々の想像力をかきたてます。内部にいた彼女達はたとえ大奥から外に出たとしても、見知ったことについて他言を禁じられていましたから、当時から謎に包まれていたのです。

 大奥に勤める奥女中たちはそれぞれがさまざまな役目をにない、役人のようにはっきりとした上下関係にしばられていました。しかしひとたび将軍の目にとまり寵愛を受ければ、自分ばかりか一族にも富と栄誉が与えられるケースもありました。ただし、すべての女性が側室を目指していたわけではありません。大奥にいたことがあるというだけで女性にとっては素晴らしいステータスになりましたから、嫁入り前の行儀見習いとして奉公にあがる旗本の娘達もいました。
 大奥と歌舞伎といえば「絵島生島事件」。大奥の実権をにぎる御年寄の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎が罰せられたこの事件は、大奥最大のスキャンダルと言われ、のちにこれをモデルにした人形浄瑠璃が書かれました。明治に入ってからはこれが歌舞伎でも上演され、さらに小説やTVドラマ、映画など、さまざまなジャンルでも取り上げられています。

くらしの今と昔

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