歌舞伎いろは
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其の二 湯屋の変遷とその仕組み

 では、湯屋の中はどうなっていたのでしょう?
当時の湯屋は、混浴でした。風俗を乱す恐れのあるものとして1791年に松平定信が禁止し、男湯と女湯に分けられたものの、復活。1841年に水野忠邦が再び禁止したものの、再び復活。その後、明治2年に新政府によってようやく根絶されました。

 とはいえ、当時の湯屋は浴槽の湯が冷めないように、体を洗う流し場と湯槽(ゆぶね)の間に板戸が張ってあったため、湯槽は真っ暗。混浴といってもさほど気にすることはなかったようです。反対に、目が合うだけでも痴漢呼ばわりされかねないので、男性の方が緊張していたという説もあります。

 さて、流し場と湯槽の仕切り板には、一部、洞窟の穴のようなものが空いていて、これを「柘榴(ざくろ)口」といいました。客はかがんで入るのです。当時、鏡磨きに柘榴の実から採った汁を使っていたため、「かがみ入る」と「鏡(に)要る」をかけたダジャレから、この名称がつけられました。この柘榴口、江戸では多くが鳥居型で、京阪では破風(はふ)型。どちらも表には美しい彩色彫りがしてありました。これを潜ると、中は薄暗くて人の顔も見えない。そのため、浴槽に入るときには、声をかけたのです。式亭三馬の『浮世風呂』によると、「田舎者でござい、冷えものでござい、ごめんなさい、といい、あるいはお早い、お先へと演べ、あるいはお静かに、おゆるりなどという類い、すなわち礼儀である」。「不慣れだから、無礼があったらごめんなさい、冷えた体があたったらごめんなさい」などと断ってから入ったという意味。裸同士の付き合いだからこそ、礼を尽くす――こんなところにも、江戸っ子の粋が表れているのです。

 「火事と喧嘩は江戸の華」というように、湯屋でも些細なことから喧嘩が頻発していたものの、さまざまな職業や階層の男女が集い、おしゃべりをし、憂さ晴らしをして帰って行く湯屋は、江戸の活力を支えた大事な社交場だったのです。

長屋見取図

くらしの今と昔

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