歌舞伎いろは

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想い出写真:29歳、「大序」緊張の1枚

29歳の芝田正利さん
裏面には、二代目尾上松緑の直筆で、「忠臣蔵大序 師直大見得直前の小柴の緊張の一瞬!!! 尾上松緑」と書かれている。「小柴(芝)」は、芝田さんのこと(その理由は4ページ目「取材雑記」をご覧ください)。
『仮名手本忠臣蔵 大序』昭和48年2月歌舞伎座

昭和46年5月歌舞伎座 尾上菊五郎二十三回忌追善
『仮名手本忠臣蔵 道行旅路の花聟(落人)』
幕引きを担当する芝田さん(右)。通常、定式幕は上手(右側)から下手(左側)へと閉めますが、これは「逆幕(ぎゃくまく)」と言って、いつもと逆の方向に幕を閉める珍しい演出。

昭和48年2月歌舞伎座
『仮名手本忠臣蔵 大序』
「昔は、赤ちゃんを抱いて観劇に来られる方もよくお見かけしました。あるとき私がツケを打ち始めたら、すやすや眠っていた赤ちゃんがびっくりして泣き始めてしまい、そのお母さんが私を睨みながら外へ出られたことがありました。そのとき、眠っている赤ちゃんを起こさないようなツケが打てないものかと思いましたね」

 この写真は、『仮名手本忠臣蔵 大序(だいじょ)』のときですね。ツケを打ち始めてから3年目くらいかな。舞台写真家の吉田千秋さん(*)が写してくださったものです。大序の冒頭は、浄瑠璃に合わせて俳優さんたちが人形に命が吹き込まれるように少しずつ身体を起こしていきますよね。ツケ打ちもそれと同じように、最初はちょっとうつむき加減にしているんです。

 この「大序」で高師直(こうのもろのお)を演じてらしたのが松緑さんです(二代目尾上松緑)。松緑さんと先代の勘三郎さん(十七代目中村勘三郎)には、よく打たせていただきました。松緑さんは、人を育てるのがうまい方でした。私が新米のころは、「好きなようにやっていいよ。合わせてやるから」とおっしゃるんです。それが1〜2年目くらいになったら、毎日楽屋に呼ばれてダメを出される。一人前になったころを見計らって、細かく教えてくだっさったんですね。その松緑さんがこの写真の裏に一筆書いてくださっています。大変ありがたく記念になる1枚です。

 私のツケの師匠は、中村藤吉(なかむら とうきち)さんです。トウベイさんとも呼ばれていましたね。そのころは、ツケ打ちは年配の方ばかり。若い人を育てなきゃと思われたんでしょうかね、芝居好きだった私に「やってみないか」と声がかかりました。

 最初のうちは師匠と差し向かいに正座して、ひざを叩いて練習です。ずっと叩いているもんだから、いつも青あざだらけ。そういう稽古を1年くらいやって、やっと道具を持たせてもらいました。それは、うれしかったですよ。すぐには本舞台(歌舞伎の公演)は打たせてもらえませんから、最初のうちは「赤坂をどり」など舞踊の会で打っていました。

 ツケを打つ場所を「ツケ場」と言いますが、舞台の全体を見渡せる、舞台裏の動きもわかる、客席の反応も感じられる、それに毎日芝居が見られます。芝居を勉強するには最高の場所です。舞台は生ものですから、毎日異なります。俳優さん、音楽、ツケなど全てがぴたっと合うことは滅多にありません。毎回、真剣勝負で挑んでいます。

*吉田千秋(よしだ ちあき 1918-2007):舞台写真家。故・木村伊兵衛に師事し、1950年から歌舞伎の写真を撮り始める。1951年の歌舞伎座再開場後は、毎月の舞台写真の撮影、歌舞伎座の筋書編集にも携わった。歌舞伎座のみならず、全国の歌舞伎公演の写真を撮影し、歌舞伎の歴史に大きく貢献した。このページ内のモノクロ写真はすべて吉田千秋氏撮影。

昭和19(1944)年、東京都江東区生まれ。長谷川大道具株式会社(現・歌舞伎座舞台株式会社)に勤める兄の勧めで昭和40年に同社の臨時雇用となり、翌年に正式入社。大道具の飾り込みや転換作業、経師、幕引きを担当。その後、菊五郎劇団付きのツケ打ちだった中村藤吉に師事。昭和45年11月『通し狂言 伽羅先代萩』で歌舞伎座のツケ打ちとして初舞台。
歌舞伎座、地方公演、舞踊会、海外公演などでツケ打ちとして活躍(歌舞伎座は、2010年5月より休場中)。また飾り込みや舞台転換の際は、円滑に作業を進めるための指揮も執る。現在は、新橋演舞場などでツケ打ちを勤めている。
平成9年第十三回日本舞台芸術家組合賞。平成19年日本俳優協会再建立50周年記念永年功労者。日本演劇興行協会における「平成21年度助成事業」受賞。

ちょっと昔の歌舞伎 モノからひもとく想い出あれこれ

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