歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



想い出写真:高麗屋三代襲名のスチール撮影

昭和56年、九代目松本幸四郎襲名のスチール撮影。鉢巻きを直しているのが市川歳三さん(当時49歳)。
撮影:松竹株式会社

楽屋廊下でのスナップ
「かつらの下には羽二重(はぶたえ)という布を頭につけます。今はお弟子さんがされますが、昔は床山がやっていたんですよ。俳優さんのひげも床山が剃っていましたね」 。

歌舞伎座の床山部屋にて(左が市川さん)
「染五郎さんは、小さい頃によくこの床山部屋に遊びに来ていましたね。床山は立役と女方がそれぞれ専門として分かれていて、歌舞伎座では部屋も別々でした」

 これは昭和56年に今の松本幸四郎さんが九代目を襲名されたときのスチール撮影の様子をおさめた一枚です。ご存じのように、このときは初代松本白鸚(1910-1982)、九代目松本幸四郎、七代目市川染五郎の高麗屋三代の同時襲名でした。大変な盛り上がりで、銀座の和光で襲名の展覧会も開かれ、この写真もパネルで展示されたんですよ。

 襲名は10月、11月と2ヵ月間歌舞伎座で行われましたが、『仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場』『勧進帳』『助六曲輪江戸桜』など大きな演目が並びましてね、自分の担当する俳優さんがたくさん大役をされるので、もうとにかく忙しかったですね。

 白鸚さんとのご縁は私が27歳のときにいただきました。大変几帳面な方でしたね。床山はかつらを結い上げる仕事とともに、楽屋で俳優さんの頭にかつらをかけたりはずしたり(かつらをかぶせることを「かける」と言う)するんですが、白鸚さんはかつらをかける時間も、舞台が終わってからはずす時間もいつもぴったり同じ。ですから私も早め早めに楽屋へおうかがいするようにしていました。

 うちは祖父、父、兄が床山という家系ですが、父は3歳のときに亡くなったので直に教えを受けていません。兄は10歳以上離れていて床山をやっていましたが急逝してしまいました。それで床山の親方である鴨治虎尾さん(※)から「おまえが床山を継げば、4代目になるからやんなさい」と言われまして、もともとやりたかったこともあり「はい」とふたつ返事で入門させていただきました。21歳でした。

 初めて幹部クラスの俳優さんに接したのは、八代目澤村訥子さん(さわむらとっし 1887-1963)でした。松竹の稽古場でお目にかかったのですが、江戸っ子独特の威厳があって、こわくてワナワナ震えましたよ。でも父をご存じで「ほう、市川の一番下のせがれかぁ」なんて言ってくださって、うれしく感じたものです。おかげさまでうちの次男も床山を継ぎ五代目へとつながりました。今は二人で高麗屋さん、播磨屋さんを担当させていただいています。

※鴨治虎尾(かもじ とらお 1902-1987):床山業界で初の株式会社である、東京鴨治床山株式会社の創設者。大正1年、歌舞伎立役の床山・淀与四郎の内弟子になり、翌年、堀越利三郎に入門。同じく内弟子として立役の結髪を修業。大正14年には松竹の床山主任となり、立役の結髪を指導する立場となった。昭和31年に鴨治床山株式会社を設立し、昭和35年には東京床山協会会長に就任。歌舞伎床山の第一人者として多くの後継者を育て、業界の発展に貢献した。


昭和7(1932)年、東京都台東区生まれ。祖父金太郎、父藤吉、兄竹男も床山。男3人女4人の7人兄弟の末っ子。昭和28年10月に鴨治虎尾に入門、昭和34年ごろから吉右衛門劇団系の俳優の担当となり、八代目松本幸四郎(後の松本白鸚)を受け持つ。現在は現松本幸四郎、中村吉右衛門を担当し、市川染五郎も担当する。次男の純也も昭和57年より東京鴨治床山株式会社に入社し、床山の仕事を受け継いでいる。
平成19年、日本俳優協会再建設立五十周年記念 永年功労者表彰。東京床山協会理事。

ちょっと昔の歌舞伎 モノからひもとく想い出あれこれ

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