歌舞伎いろは

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想い出写真:衣裳記録のスクラップブックより

田中さんが長年作りためてこられた衣裳記録のスクラップブック。舞台写真、役の名前と衣裳の名称、衣裳の布見本も貼り付けられている。田中さんの字はなかなか達筆!

昭和39年4月、歌舞伎座『仮名手本忠臣蔵 九段目』 右の写真は、十四世守田勘弥の加古川本蔵。左は六世中村歌右衛門の戸無瀬。

十四世守田勘弥がまとった『仮名手本忠臣蔵 九段目』加古川本蔵の衣裳。主に4種類の布地が使われている。

与三郎の衣裳などで使われる、藍みじんという結城紬3種。藍みじんも、よく見ると模様が微妙に異なっている。
左:玉三郎丈が編者としてまとめた豪華本『十三代十四代守田勘彌舞台姿』は、装丁に藍みじんの布を使っている。
右上:現在、『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし) 源氏店』(切られ与三)で与三郎の衣裳としてよく使われる藍みじん。勘弥丈(十四世守田勘弥)が自前でお持ちだった衣裳に色味が近いそうだ。
右下:ほかの2枚と比べるとやや暗めの色合い。勘弥丈は、これに似た色味を『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』(河内山と直侍)の直次郎の衣裳として使われていたそうだ。

 このスクラップブックは、担当した衣裳を記録しておくために若いころから作ってきたもので、(左の写真は)昭和39年4月に歌舞伎座で『仮名手本忠臣蔵 九段目』をやったときのページです。十四世守田勘弥(1907-1975)さんが加古川本蔵を初役でなさることになり、私が衣裳を仕立てさせていただきました。歌舞伎の衣裳は1回の公演で、1カ月近く毎日使われるためライトで色あせしたりしてすぐに傷んでしまいます。だから数回の公演でダメになることが多いんですよ。でも「九段目」はあまり上演されないので、勘弥さんが袖を通されたものがまだこうして私たちの手元にあります。とても貴重なものです。

 私は20歳くらいから(昭和35年ごろ)十四代の旦那(十四世守田勘弥)を担当させていただきました。旦那は50代前半くらいでしたでしょうかね。まさに江戸っ子という感じのいい俳優さんでね、旦那につけて本当に幸せでした。衣裳の準備で失敗したりしてご迷惑をかけたこともありましたが、声を荒げるようことはなさらない方で「これからはよく調べるんだよ」と諭すようにおっしゃて。今から思うと、よく我慢してくださったと思います。

 旦那は芸域が広くいろんな役柄を演じられる方でしたが、あえてひとつあげるなら『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』の与三郎が私は好きでしたねぇ。私が担当してからは、昭和36年から49年の間に4公演ほど与三郎をされていますが(勘弥丈50-60代、田中さん20-30代)、「源氏店(げんじだな)」で与三郎が お富のいる部屋へ入る前に、足で石っころをおはじきみたいにしてもて遊んでいる場面がありますよね。その後ろ姿なんか、とってもよかったですよ。

 それから「見染(みそめ)」で、与三郎がお富にぽーっとみとれて、着ている羽織を落としてしまう有名な場面がありますが、こんな想い出があります。羽織が程良くスルリと脱げるように、羽織の裾に釣りで使う鉛の重りを入れてみたんですよ。それから羽織の表地と裏地がずれないほうがきれいに落ちるので、ところどころを糸で留めたりもしました。旦那と相談しながら何度か試行錯誤していくうちに、どのあたりを糸で留めておくのがいいのかコツがわかってきてね。いい具合にすべり落ちるようになりましたよ。

 旦那は、衣裳に大変お詳しく特に色へのこだわりが強かったですね。自前の衣裳を持つ俳優さんは少ないのですが、与三郎が「源氏店」で着る藍みじんという結城紬の衣裳や『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』(かさね)の与右衛門の帯など、いくつかお持ちになっていました。藍みじんは、十五世市村羽左衛門さん(1874-1945)が十三世守田勘弥さん(1885-1932)に譲られたもので、それを旦那が受け継いでおられました。その藍みじんは、見事な織物でした。今ではこんな風合いの結城紬は作れないと思いますね。


昭和14(1939)年、東京生まれ。立教高等学校在学中にボート部のコーチをしていた根岸演劇衣裳(現在の日本演劇衣裳)の根岸茂吉の誘いでアルバイトをはじめたのをきっかけに、昭和32年に入社。
数年間はテレビの仕事などをしていたが、昭和35年ごろから十四世守田勘弥の担当となる。親方の本庄氏に連れられて浜町(現在の日本橋)の自宅へ出向き挨拶をしたところ、勘弥丈から「来月から頼むぜ」と言葉をいただいたという。
入社した昭和32年の12月には五代目坂東玉三郎が坂東喜の字の名前で初舞台を踏んでおり、この舞台から衣裳を着せている。以降、歌舞伎、新派などのさまざまな衣裳を担当。現在は楽屋まわりの現場からは引退しているが、前ごしらえなど重要な役割を担っている。

ちょっと昔の歌舞伎 モノからひもとく想い出あれこれ

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