歌舞伎いろは

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想い出写真:追善演奏会にて歌右衛門丈と

平成7年11月26日「芳村五郎治三回忌 追善演奏会」(歌舞伎座)での一枚。左・六世中村歌右衛門丈、右・鳥羽屋里長さん。

昭和39年8月ハワイ公演での一枚。左から、里長さん(28歳)、六世歌右衛門丈、松島庄十郎さん(歌舞伎長唄・唄方)。まだ1ドルが360円の時代で、里長さんにとっては初めての海外旅行。幼いころから歌舞伎長唄には親しんでいたが、この公演のころから生涯の仕事にしようと意識しはじめたそうだ。

六世歌右衛門丈が着た八重垣姫の衣裳の小裂。歌右衛門丈が逝去した後に、形見として譲り受けたそうだ。里長さんはきれいに額装し、お稽古場の床の間に飾られている。

六世歌右衛門丈の隈取(昭和39年12月歌舞伎座『蜘蛛の拍子舞』、後シテ・土蜘蛛の精)。

 この写真は父(芳村五郎治:歌舞伎長唄の唄方 ※1)の追善演奏会のときのものです。歌右衛門さん(六世中村歌右衛門1917-2001)は『京鹿子娘道成寺』などの長唄舞踊は、ほとんどを父に任せておられました。父は75歳を過ぎたころから芸の安定感が増していきました。舞台で唄っていて92歳で亡くなるまで、それと比例するように歌右衛門さんからの信頼もどんどん篤くなっていったように感じます。

 私は30代中ごろから歌右衛門さんにかわいがっていただきました。歌右衛門さんは長唄や黒御簾音楽(※2)にも大変お詳しく、またその芸のよしあしを緻密に見ておられました。舞台に出ている私たちにも「毎日うまくなっていかなきゃ、だめよ」とよくおしゃっていました。

 歌右衛門さんとの想い出は尽きませんが、やはり一番印象に残っているのは、『籠釣瓶』(※3)での教えでしょうかね。八ツ橋はもちろん歌右衛門さん。私は30代だったと思います。黒御簾に父が出ていたのですが体調を崩してしまい私が代わることになりました。「縁切り場」の終盤を思い浮かべてみてください。八ツ橋が次郎左衛門に愛想尽かしをし、部屋を出ていきますよね。その時、長唄の『松の緑』という曲の<なをも深めに・・・>という独吟が入るんです。台詞も音もなくて静まりかえっている、その張りつめた空気を割って唄う。非常に重要な独吟です。

 舞台が終わった後。歌右衛門さんの楽屋をおたずねすると『あなたの唄じゃ、泣けないわよ』という厳しい言葉をいただきました。とても悩みましてね、夜も眠れません。翌日以降も『いい声を出して、唄えばいいもんじゃない』『あなたの声には泣きがない』など、来る日も来る日もダメの連続。もう本当に眠れませんでしたね。

 そんな日が一週間くらい続きました。苦しみ抜いた末にもういいや!と思って、どなるように唄ってみたんですよ。そしたらこれにお許しがでました。実は後になって伝え聞いたんですが、歌右衛門さんは最初に唄ったときのものでいいと思われていたそうなんです。でも、いいと言ってしまうと私が成長しないと思われたんでしょうね。

 今、この件を振り返ってみると、当初の私の唄には力がなかったんじゃないかと思います。おなかの底から出るような、力強く張った感じが足りなかった。歌右衛門さんのダメは、その時には意味がわからなくても、ずっと後になってわかるものが多いですよ。この籠釣瓶の一件も30年くらいたったころに、ようやく意味がわかるようになりました。

※1 二代目芳村五郎治(よしむらごろうじ 1901-1993):七代目鳥羽屋里長の父。歌舞伎長唄・唄方の名人で人間国宝。歌舞伎座復興のころから立唄をつとめ、長唄協会の会長として長唄界の発展にも尽力。日本芸術院会員。パリ市からベルメイユ章受章。没後に従四位、勲三等瑞宝章追贈。
※2 黒御簾音楽(くろみすおんがく):黒御簾、下座音楽(げざおんがく)、陰囃子(かげばやし)ともいう。歌舞伎のBGMのこと。舞台下手の小部屋から、舞台の様子をうかがいながら生演奏で音楽をつけている。
※3 『籠釣瓶』:本外題『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』。醜いあばた面の次郎左衛門が、吉原の花魁・八ツ橋に心を奪われることから話がはじまる世話物の名作で、「縁切物」の代表作として人気が高い演目。

昭和11(1936)年、歌舞伎長唄の唄方・二代目芳村五郎(人間国宝)と三味線の名手といわれた杵屋栄和香の長男として東京日本橋に生まれる。本名、川原寿夫。
幼いころから長唄に親しみ、七代目芳村伊十郎、三代目杵屋栄蔵、杵屋栄二、山田抄太郎に師事。昭和30年に芳村伊千十郎(よしむらいちじゅうろう 二代目)を襲名。昭和33年、慶應義塾大学経済学部卒業。
昭和43年8月『京鹿子娘道成寺』で初の立唄。昭和49年、鳥羽屋宗家を継承し、七代目鳥羽屋里長を襲名。昭和54年に第1回リサイタル「鳥羽屋里長の会」を開催。昭和60年、「里長黒みす塾」創立。平成元年、長唄・鳴物・竹本と共に歌舞伎音楽専従者協議会を発足、理事長を務める。平成11年、国立劇場養成課「歌舞伎長唄研修」制度を開設。
現在、長唄協会会長、伎楽会会長、伝統歌舞伎保存会理事、国立劇場養成課主任。ハワイ、カナダ、ブラジルなど海外公演にも多数参加。
平成14年、重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。
旭日小綬章受章。芸術祭賞優秀賞、伝統文化ポーラ賞優秀賞を受賞。

ちょっと昔の歌舞伎 モノからひもとく想い出あれこれ

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