歌舞伎いろは

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戦後に修復された、赤レンガの新橋演舞場の外観。

昭和31年8月「東西合同大歌舞伎」の時、築地川で行われた船乗り込みの様子。『曽根崎心中』が爆発的な人気だった。

築地川のほとりに佇む赤レンガの劇場

 新橋演舞場はその名称からうかがえるように、発祥は“東京の六花街”の筆頭に挙げられる新橋花柳界と深い関係がありました。「京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないのは残念」と建設を発案したのは新橋芸妓屋組合頭取の川村徳太郎。後に川村は新橋演舞場株式会社の初代社長になりました。

 新橋演舞場の設計にあたり、意匠を担当したのは、当時はまだ無名だった建築家の菅原栄蔵。竣工したのは大正14年(1925年)3月でした。基礎、柱、床などは鉄筋コンクリート、壁はレンガ積みで外側に常滑産の黄褐色の化粧レンガが貼られ、屋根は鉄骨で瓦葺き。大正時代の名建築と言われましたが、昭和20年(1945年)5月25日の夜の大空襲で焼夷弾が屋根を貫き、場内を焼失してしまいます。ちょうどこの日は尾上菊五郎一座の公演が千穐楽を迎えていました。昭和20年になって空襲が激しくなる中、興行は困難を極め、2月、3月、4月は休場。5月の公演(初日は4月26日)では、俳優も観客も並々ならぬ覚悟で演じ観ていたことでしょう。

 終戦後も外壁だけが残って屋根が抜けた悲惨な姿に演劇人たちは心を傷めていましたが、昭和23年(1948年)3月18日、新橋演舞場は待ちに待った再開の日を迎えました。改築落成開場式記念興行の御祝儀は『寿式三番叟』で六代目菊五郎が三番叟を踏み、新橋芸妓による「東をどり」も披露。戦前の建物の面影を継いだ新橋演舞場の外壁には褐色の化粧レンガが貼られ、以降、赤レンガの劇場として親しまれました。

 70代以上の方が隔世の感を強く持つと思われるのが、現在の新橋演舞場の横を走る、半地下式の高速道路が築地川だった時代。上右の写真は昭和31年(1956年)8月「東西合同大歌舞伎」に臨み、築地川で一度だけ行われた船乗り込みの時のものです。この公演では、昭和28年(1953年)の「東西合同大歌舞伎」で絶賛された近松門左衛門原作・宇野信夫脚色並びに演出の『曽根崎心中』が新橋演舞場で再演され、大変な人気となりました。

正面玄関。建物の向き、方角は現在と同じ。

華やかな装飾が施された正面玄関内部。

貴賓席のある観客席。大天井が豪華。


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