今年、開場100周年を迎える新橋演舞場。
新橋の地の趣を守りながら、時代を先取りする柔軟な姿勢で、さまざまなエンタテインメントを生み出してきました。その歴史とともに、新橋演舞場の魅力に迫ります。
【開場前夜~新橋演舞場の誕生(大正14年)】

現在新橋演舞場が建つ土地は、近世には大名屋敷が並ぶ埋立地でした。明治期に入ると、大火に見舞われた界隈を明治政府が買い上げ、新橋から銀座にかけての一帯がレンガを使った洋風の市街に整備されます。名高いお茶屋や、遊船宿が多かった新橋周辺は、慶応元(1865)年から明治期にかけて、新政府の要人や実業家たちが集い、大きな隆盛を見せました。
大正期に入り、新橋をはじめとする東京の芸者の技芸向上のために、京都や大阪にあるような芸妓の技芸を披露する劇場を、という声を上げたのは新橋芸妓屋組合頭取・川村徳太郎でした。大正11(1921)年には川村を社長とする新橋演舞場株式会社が誕生。着工した大正12(1922)年に関東大震災に見舞われる苦難を越え、いよいよ大正14(1925)年3月に新橋演舞場が開場します。
設計を担当したのは、のちに銀座七丁目に現存するライオンビヤホールなどを手がけた菅原栄蔵。当時の街並みにもなじむ化粧レンガ張りの劇場は、切妻屋根と一文字の庇の正面玄関を構え、レンガの角柱と窓、透かし彫りの装飾テラコッタが配されたファサードをもち、場内には幾何学模様の玄関や天蓋付の貴賓席、食堂の照明や椅子といったディテールへのこだわりを感じさせる、モダンで斬新な建物でした。



竣工の翌4月、落成式と合わせて開幕した杮落とし公演は、まさにこの劇場の創立の目的でもある、新橋芸者の演芸を披露する第一回「東をどり」。翌5月、6月には、新橋演舞場で初めての歌舞伎かつ演劇興行として、尾上菊五郎一座による歌舞伎公演が行われました。昭和期には、東をどりや歌舞伎のほか、文楽、新派、新国劇、前進座、曾我廼家五郎の喜劇、松竹少女歌劇、宝塚少女歌劇…と幅広いコンテンツが登場。昭和15(1940)年には、松竹株式会社と興行契約を結び、東をどり以外の興行権を松竹が担う形となりました。
【戦後の新橋演舞場(昭和23年~昭和54年)】
昭和20(1945)年4月、戦況も悪化し本土への空襲も激しくなるなか、歌舞伎の公演中に空襲警報が発令。そのまま休演となり、これが戦前最後の公演となりました。翌5月の東京大空襲で一帯は焼け野原に。新橋演舞場は屋根が落ち、レンガ造りの外壁だけがかろうじて残った状態だったと言われています。
終戦後、新しく新橋演舞場株式会社の社長として松竹の大谷竹次郎を迎え、昭和23(1948)年、新橋演舞場は吉田五十八(戦後の第四期歌舞伎座の設計も担当)の設計による修復工事を終えて復活します。外観の雰囲気は初代の演舞場のそれを保ちつつ、内装は装飾性を控えてスマートな落ち着きをもつ空間へと変容しました。

戦後の新橋演舞場では、それまでに上演されていた分野の公演はもちろん、オペラやバレエ、新劇、モスクワ芸術座など海外の劇団の公演や、昭和23年に誕生した松竹新喜劇、そして異分野同士のコラボレーション企画など、多彩な、そして新しい時代を象徴するような公演が次々と登場しました。昭和36(1961)年に新館ホールを増築するなど若干の変化もありながら、戦後数十年を経た昭和52(1977)年、周辺地域一帯の開発とあわせ、老朽化していた劇場を改めて建て直すことが決定します。
【そして現在へ(昭和57年~現在)】

昭和54(1979)年8月に二代目新橋演舞場最後の公演を終え、2年後の昭和57(1982)年、現在の新橋演舞場が竣工。劇場の上に高層オフィスを重ねた共同ビルとして再建された新橋演舞場は、内部に最新設備を備えながら、正面はこれまでの新橋演舞場と同じく化粧れんがを用いて、往時を彷彿とさせるファサードをもつ劇場として生まれ変わりました。
この新生新橋演舞場では、東をどりや歌舞伎をはじめとするお馴染みの公演に加え、リサイタルや、ジャズコンサート、ブロードウェイの来日公演や劇団☆新感線、さらには漫画やゲームを原作とする新作歌舞伎、アイドルが活躍する舞台など、新たな趣の公演も上演されました。昭和61(1986)年、二世市川猿翁(当時 三代目猿之助)によるスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』が初めて上演されたのもこの新橋演舞場です。平成22(2010)年~平成25(2013)年の歌舞伎座の建て替えの間は、歌舞伎座に代わって長期的に歌舞伎を上演し、東京の歌舞伎の中心としての役割を担いました。
また平成4(1992)年、平成10(1998)年、平成17(2005)年と改修を重ね、ロビーやエスカレーターなどの整備・新設を行い、細やかに行き届いた劇場へとブラッシュアップし続けてきました。時代それぞれの変化のなかにも、新橋の土地に誕生して以来の変わらぬ面影をそこに残す存在として、また、新しい時代の波をしなやかに取り入れる精神を映したエンタテインメントを生み出す劇場として、いまもこの土地に建ち続けます。