歌舞伎いろは

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西日本屈指の水揚げ高を誇る八幡浜漁港。
この辺りは江戸時代は宇和島藩で、じゃこ天は江戸前の天ぷらと相前後する時代に生まれた郷土料理です。

やっぱり美味しい!庶民の味

 江戸湾(現在の東京湾)の奥行きは今よりもかなり広く、日比谷の辺りが海岸線だったといいます。その遠浅の海ではどんな魚が獲れていたかといえば、マダイやヒラメといった高級魚を筆頭に、シロギス、ハゼ、メゴチ…とまさに魚介の宝庫。

 とはいえ一般大衆がそれらの新鮮な魚を気軽に口にしていた、というわけではないようです。当時、日本橋にあった魚市場に水揚げされた魚は、高級魚から料理店へ。庶民が買うのは棒手振りが売り歩くイワシやサンマなど、まったくもって「庶民的」。しかも、一般的な長屋には十分な台所設備がなく、焼き魚が食卓に上がるのは、七輪が登場する江戸後期以降といわれています。それだけに調理済みの総菜を売る屋台や煮売り屋は、とても重宝だったのでしょう。

 江戸前と聞いて連想する筆頭、てんぷらも、江戸後期に屋台で売られたのが始まりです。見ている前ですぐできて、片手でサッとつまめる手軽さは、せっかちな江戸っ子気質にマッチしたはず。我が家に便利なキッチンがあるわけでもなく、日頃から総菜はテイクアウト文化の江戸で、あっという間にファストフードとして定着していきました。油料理といえば、もっぱら油揚げか、がんもどき。現代とは比較にならないほど質素な食生活だった時代です。江戸湾で獲れる新鮮な魚を揚げた、熱々の天ぷらをほおばるおいしさは格別だったでしょう。ちなみに江戸ではてんぷらといえば魚に限った呼び名で、野菜揚げとは区別されていたそうです。

 それにしても、関西や四国、九州では「てんぷら」といえば魚の練り製品を揚げたもの(薩摩揚げなど)のことを指しますが、どうしてなのでしょう。これには諸説があるようです。

 例えば、愛媛県宇和島には、「1615年、宇和島藩主となった伊達秀宗が当時住んでいた仙台(宮城県)から、現在の蒲鉾職人を連れてきて蒲鉾を作らせた」という記録が残っているそうです。以来約390年、この地の練り物文化は培われてきたわけですが、面白いのは、おそらくは江戸前のてんぷらの登場と相前後する時代に、この地に練り合わせた小魚のすり身を油で揚げる独自の郷土料理「じゃこ天」が誕生していたこと。東西問わず、庶民が生んだ「てんぷら」は、魚の滋味たっぷりで、人々の胃袋と心を満たす美味しさだったことでしょう。

『東都名所高輪廿六夜待遊興之図』歌川広重画(1841年?42年)東京都江戸東京博物館蔵(禁無断転載)。
旧暦の7月26日の夜に月の出を待って、月を拝む習慣があり、高輪の海岸近くは大勢の人出で大変賑ったそうです。上図中央には天ぷらの屋台が描かれています。

歌舞伎「食」のおはなし

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