歌舞伎いろは

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赤穂浪士の「討ち入り蕎麦」、ホントは「うどん」?

 日本の麺類のルーツは、奈良時代に唐から伝えられた「こんとん」と呼ばれる菓子。これは小麦粉の生地に餡を包んだものでした。やがて室町時代中期に、現在のうどんの形になったと言われています。蕎麦のほうはといえば、江戸時代以前はもっぱら粉を熱湯で捏ねた「そばがき」「そばねり」などの食べ方しかありませんでした。

 細長い麺状の「蕎麦切り」が登場するのは、慶長年間から寛永年間(1596?1644年)のころ。さらにそれが庶民的な食べ物になるのは、江戸中期の安永年間(1772?1781)と言われています。それ以前の江戸は、もっぱらうどんが全盛で「うどん屋」の暖簾を掲げながら蕎麦も出していたのだそう。やがて蕎麦切りの威勢よくすすり込む食べ方も、粋を好む江戸っ子に受けたのか、蕎麦が支持されるようになったのです。ちなみに初期の盛り蕎麦は、今のように茹でるのではなく蒸籠(せいろ)で蒸していました。現在も蕎麦屋のメニューにある「せいろ」は、その当時の名残です。

 ところで、かの有名な赤穂浪士が討ち入り前夜、両国橋向詰の「蕎麦屋楠屋十兵衞」の二階に集結して蕎麦を食べたという巷説があります。映画やドラマなどでは、よく取り上げられるこの蕎麦屋のシーン。目にしたことのある方も多いでしょう。討ち入りといえば…時は元禄15年12月14日深夜(から15日未明にかけて)、つまり1703年1月30日。江戸で蕎麦切りが庶民に流布するよりずいぶん以前の出来事です。ということは、義士達が食べたのはうどん?!

 信頼できる記述として『寺坂信行筆記』には、一部の義士が集合前に「蕎麦切り」を食べたことが記されています。ですが、事件の隠密性を考えると、蕎麦屋で大勢が気勢を上げるというのには疑問が残るところ。後世の創作と考えてよさそうです。

 江戸庶民の味覚、うどんと蕎麦ですが、特に小麦粉を使ううどんは長い間、贅沢品とみなされていました。江戸中期の飢饉の頃には、全国に幕府からうどんの禁止令が出されたことも。現在でもうどん好きの聖地のような讃岐地方にしても、江戸後期に至るまで、うどんは農村部では田植えや法事などで振る舞われる「ハレ」の食べ物でした。中には、藩への献上品として作られた秋田の稲庭うどんのように、当時のセレブリティ御用達の超高級品もあったほどです。

「鬼あざみ清吉」 『小袖曽我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)』歌川豊国画(安政6年)。屋台に「きそば」「うんどん」と書かれている。(大阪市西成区関西そば製粉組合蔵。無断転載禁)


歌舞伎「食」のおはなし

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