歌舞伎いろは

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米より高価だった、上方からの下り醤油

 関東圏では千葉県の野田、銚子の醤油が知られていますが、この地域で醤油が産業化されたのは江戸も元禄期。それ以前は醤油といえば、もっぱら関西産の醤油で、江戸では「下り醤油」と言われていました。海運を使って江戸に運ばれる醤油は高価で、江戸初期の頃は米の3?4倍の値段だったとか。庶民の好物、蕎麦のつゆに、はじめは醤油ではなく垂れみそが使われていたのも道理です。

 ところで、歌舞伎好きの人なら、「醤油」と聞いて思い浮かべるのは『曽根崎心中』でしょう。元禄16年(1703年)に実際に起こった心中事件を題材に近松門左衛門が人形浄瑠璃に描いて大ヒット。以降、心中物が大流行した歴史的な作品です。しかし当時は歌舞伎ではあまり上演されず、現行脚本の初演は昭和28年(1953年)。遊女お初と心中を遂げる徳兵衞は、大坂屈指の醤油商、平野屋右兵衞門の手代です。ふたりが抜き差しならない状況へと追い込まれていくのは、お初の身請け話と、もう一つは徳兵衛に持ち上がった、主人の養子娘と結婚させられ江戸店に行く話がきっかけでした。

 徳兵衞が行くはずだった江戸店で商われていたのは、おそらく上方産の薄口醤油でしょうか。この物語の時代から少し上って、江戸独自の文化が花開く文化・文政(1804?1830年)のころになると、人々の暮らしもいくぶん豊かになり、庶民も調味料として醤油が一般的になります。相前後して、関西から醤油醸造の技術を学び、関東でも醤油造りが盛んに。同時に味も江戸っ子好みの濃口へと変化していきました。

 ですが中には紀伊の湯浅醤油のように、当時から濃口醤油を製造し、関東の醤油製造業の成長に影響を与えた関西地方の老舗もあります。現在の私たちが、地域を問わず濃い口も薄口も、当たり前のように使い分けていることを思えば、湯浅醤油のご先祖たちは、時代の先駆者だったのかもしれません。


歌舞伎「食」のおはなし

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