歌舞伎いろは

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年間100万樽以上をぐいぐい飲んだ江戸時代

 「下り酒」は、樽廻船(たるかいせん)と呼ばれる船に乗せられ、平均20日ほどで江戸に運ばれました。海上で波に揺られた「下り酒」はほどよく攪拌(かくはん)され、樽材の吉野杉の香りが酒に移り、味わいを増したとか。航路、富士山を眺めてやってきた酒だからと「富士見酒」と呼ばれたそうです。そんな江戸の情報が伝わった上方では、自分たちも旨い酒を飲もうと、わざわざ酒を船で富士山の辺りまで運んで引き返す手間をかけ、上方用の「富士見酒」をつくったというから驚きです。

 余談ですが、江戸っ子は「下りもの=高級品」と信じていました。それに対して、とるに足らないつまらないものを「くだらないもの」と言うようになったのだそうです。

 喜田川守貞の随筆『守貞漫稿』(天保8年・1837年~慶応3年・1867年)によれば、幕末の頃、酒の年間消費量は下り酒が「毎年大概八、九十万樽」。これに関東一円の地回り酒10万樽(同「守貞漫稿」)を加えれば、江戸では年間100万樽ほどが消費されていたことになります。当時の風俗を綴った「江戸繁昌記」(天保3年・1832~7年・1836刊行)には、長屋のおかみさん連中が昼間から車座になって酒盛りをする様子が描かれて、どうやら江戸っ子は男も女も、かなりのお酒好きだったことが窺えます。

 「下り酒」以前は、手軽な酒として、もっぱら江戸近郊でつくられる「濁り酒」が流通していました。これは、「諸白」ほど濾過をしないため、未発酵の米に含まれる澱粉や澱粉が分解した糖による甘みがあるのが特長で、「どぶろく」に近いものでした。甘口で口当たりがいいから、ついつい飲み過ぎてしまいそうですが、アルコール度は14~17%ほどにもなったとか。なかなかパンチの効いた飲み物だったようです。

※注 現在は酒税法上「濁り酒」と「どぶろく」は区別されています。


歌舞伎「食」のおはなし

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