歌舞伎いろは
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牛車は主に物資の運搬に使われるようになります。生活する上で大切な米俵や炭俵などを動かす際に活躍するようになりました。
大八車は、17世紀に登場し江戸で普及。名の由来は男8人分の働きをするからとも、発案者の名前からとも。大八車が進化したリヤカーは現代も軽車両として利用されている。
高輪には牛車の集う車町があり、人々はこれを牛町と呼びました。普請のために地方から集まった牛車がそのまま江戸にいついて出来た町でした。写真は高輪魚籃坂下。

其の一 江戸に来るのも足任せ

 100万人都市の江戸の町では、実にたくさんの人々が闊歩しています。毎日の移動はもちろん、地方から江戸へやってくる人々も、江戸の外へ旅をする人々も、庶民にとっては歩くことが最も基本的な移動手段。武士や大名なら駕籠や馬を使いましたが、庶民が頼りにするのは自分たちの足そのものです。

 平安の京の都には華やかな御所車から武士達の八葉車、素朴な板車までさまざまな牛車が人々の乗り物として活躍していました。主要な道は良く整備され、石を敷いて車輪の通行に耐えるようにした場所すらあったほどです。『源氏物語/葵の巻』の「車争い」も、こうしたクルマ文化から生まれた名シーンです。

 しかし江戸の都では、牛車は主に物資の運搬に使われるようになります。また、人間の力だけで動かせる大八車が登場すると、米俵や炭俵など大変な量のモノを1度に動かす際に活躍するようになりました。こちらもやはり人のための乗り物ではありませんでした。

 庶民なら、自分たちがどこかに行きたければとにかく歩くのです。地方からやってくる行商人たちも、徒歩で江戸までやってくるのが当たり前のことでした。

くらしの今と昔

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