歌舞伎いろは
【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。


現在では、打ち上げ花火といえばさまざまな色合いの光が丸く開くものを思い浮かべますが、このような形の花火が見られるようになったのは明治に入ってからのこと。江戸の頃の花火は流星にたとえられ、紅い光が流れ星のように夜空を染めるものでした。遥かかなたで星が光るだけの真っ暗な夏の夜空には、花火はひときわ明るく世にも豪華な光を放っていたのでしょう。
浴衣は古くから一般的だと思われがちですが、庶民の夏の普段着となったのは実は江戸時代のことです。女性たちは、夜には浴衣のおしゃれを楽しみます。

其の三 華やかな夜の光とおしゃれ

 夏の楽しみとして忘れてはならないのが、花火見物です。旧暦5月28日(現在の暦では6月下旬から7月中旬)には、現在の隅田川花火大会にあたる「浅草川川開き」が行われました。浅草川とは隅田川の浅草観音あたりの呼び名で、両国橋付近で打ち上げられるこの夜の花火をひとめ見ようと岸辺や橋は人でいっぱいになり、水上にも川船がぎっしりと並びました。この晩から3ヶ月間は、花火が夜空を染め、川岸の茶屋や寄席では夜遅くまで明かりを灯す夏となるのです。

 近年では花火見物に浴衣を着る女性が増えましたが、浴衣が庶民の夏の普段着となったのも江戸時代のことでした。木綿が普及していくにつれ、浴衣は夏に適した衣服として湯上がりに限らず着られるようになったのです。「昼間の外出時に着るのはちょっとはばかられる」という女性でも、夜には浴衣のおしゃれを楽しみます。

 もともと浴衣は白地が一般的でしたが、新し物好きの多い江戸では、鮮やかな紺色の絞りや縞柄も流行りました。ただし夜は物が見えにくくなりますから、白地を選ぶものでした。女性の場合はとくに、宵闇に浴衣の白地が映えて美人に見えたそうです。
夏芝居
 歌舞伎の脚本のあり方や、約束事を記した『戯財録(けざいろく)』では「夏は人情とろけ、暑さに苦しむ時節故、芝居の内は殊に大勢の人気(じんき)にて堪へ難し。幕々を短く、息つめて見ること少く短いがよし。生世話・水物定まりてよし」と説かれています。
 江戸時代の夏芝居は興行する側にとっても、観る側にとっても、大変なものでした。
 しかしこの夏芝居で大成功を収めたのが、四世鶴屋南北です。文化元年(1804)、当時、勝俵蔵(かつひょうぞう)を名乗っていた南北は、初世尾上松助のために、本水を巧みに用いた『天竺徳兵衛韓話(てんじくとくべえいこくばなし)』を書き下ろし、大当たりをとりました。この夏芝居での成功が、南北が文化文政期(1804〜1830)を代表する狂言作者として名声を得る第一歩となったのです。

くらしの今と昔

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