歌舞伎いろは
【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。


琉球芋、薩摩芋とも呼ばれるとおり、中国を経て、沖縄から、九州、そして本州へと伝わった植物です。繁殖能力が高いため栽培が容易で、しかも腹を満たすので、またたくまに普及しました。江戸で焼き芋屋を営むのは、郊外の農家が多く、かなりの収入になったそうです。
  焼き芋屋の目印は、行灯を使った大きな看板。「○焼き屋」は、丸ごとの焼き芋を指します。切って塩をまぶして焼いたものもあり、人々は好みで、甘い丸焼きか塩味の切り焼きを選んだそうです。「八里半」という看板もあり、これは栗(九里)に近い、おいしい芋という意味でした。

其の一 寒い日のほっとひと息

 手足のかじかむ、寒い季節がやってくると、温かい食べ物が恋しくなります。そんな冬の江戸で、爆発的な人気を得たのが、甘藷、つまりサツマイモです。

 旧暦12月まで、江戸の町角のすべてといってもよいほど、あちこちに焼き芋屋が立ちました。現代の焼き芋屋の場合は移動販売がメインですが、江戸では、辻々に店を立てて売る商売です。熱い釜が、朝から晩まで煙を上げ、ほくほくの焼き芋の香りがするので、それだけでもう人々が吸い寄せられていきます。釜の数は2つというこぶりな店が大半ですが、なかには3つも4つも同時に稼動させる、大きな店もありました。また、店の立つ場所の良さよって、値段も違えば、味わいの良さも違ったそうです。

 江戸でサツマイモが食べられるようになったのは、後に甘藷先生と呼ばれるようになった、青木昆陽の功績といわれています。8代将軍吉宗が、学者の昆陽に、人々を飢饉から救う食べ物として、甘藷の栽培研究をするように依頼しました。実験は成功し、サツマイモ栽培はあっという間に全国に広がったということです。

くらしの今と昔

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