歌舞伎いろは
【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。


其の一江戸から始まった花火大会

 江戸文化の爛熟期、文化・文政の頃、グルメブームが沸き起こりました。以前に本コラムでも紹介しましたが、浅草の八百善を筆頭に高級料亭が現れ、食通にまつわる数々のエピソードを残しています。たとえば、姫路城主・酒井忠以の弟、酒井抱一の話。八百善を訪れた抱一が、刺身を一口食して箸を置いた。「どうしたのか」と同席の者がたずねたところ、「研ぎたてですすぎの足りない包丁の移り香がある」とのたまったとか。
 しかし、高級料亭を利用できたのは、一部の上級武士。一般的な武士の食事は簡素なものでした。日ごろは、ご飯に味噌汁、漬物など「一汁一菜」が基本です。ただし、行事や祝い事があると、魚、野菜の煮物、豆腐、卵などがつきました。また、武家には食膳のタブーがあり、「コノシロ」「フグ」「マグロ」といった魚は食べませんでした。「コノシロ」は「この城を食う」に通じるため、「フグ」は「武士は戦場にて死すべき。フグの毒にあたって死ぬのは不名誉なこと」として、そして「マグロ」は「シビとも呼ばれ、『死日』に聞こえる」という理由で敬遠されたのです。
 下級武士は職人などと一緒に、鮨屋をはじめとした屋台を利用しました。一方、上級武士は「買い食いはいやしい連中のすること」として利用しなかったようです。『近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば)』には、屋台に顔をつっこんで食べている武士の姿が描かれています。頭に手ぬぐいをのせて顔を隠しているところをみると、体裁を気にしていたようです。 ちなみに、屋台で鮨が気軽に食べられたり、武士の日常の食事に魚料理が出たりしたのは、江戸湾が豊富な海の幸をもたらしてくれたから。日本橋の北詰には魚市があり、にぎわっていました。この魚市は、そもそも摂州(今の大阪府)佃村から江戸に下ってきた漁師たちが、徳川家康の食膳に毎日献上していた魚の余りを売ったのが始まり。吉原と並んで「日に千両の落ちどころ」と繁栄ぶりが歌われた魚市で、江戸湾で水揚げされた魚はもとより、房総、相模、駿河から送られてきた魚も荷揚げされて、早朝から賑わいました。こういった新鮮な魚を食せる恵まれた環境が、江戸の人々の舌を育んだのです。
夕涼み

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