「羽子板資料館」の羽子板展示(一部)。写真左部のひときわ目立つ“坊主”の羽子板は『河内山』から取材。背景の鮮やかな青色の文様は、劇中の松江邸玄関襖のさや形模様だ。御数寄屋坊主(おすきやぼうず)の河内山宗俊が花道で「馬鹿め」と有名な台詞をはく、あの「松江邸玄関先の場」が目に浮かぶよう。

江戸町人の賑わいが生きる羽子板市

昨年の浅草羽子板市に出店していた時の写真。浅草寺の五重塔が見える。

鴻月さんの仕事場の1階「羽子板資料館」の外観。鮮やかな色の暖簾には「成駒屋」と鴻月さんの店の屋号も染め抜かれている。

 お正月の子供の遊びとしておなじみの羽根つき。その記述が初めて書き物に登場するのは室町時代の初めです。『看聞御日記』という文献にはお正月の御所で宮様や女官が羽根つきに興じた様子が描かれています。

 押絵はそもそも、表具の技法のひとつとして生まれました。宮中の女官などが衣類の残り布を使って襖や屏風などに装飾を施し住まいを飾る、現代なら「暮らしの中のデザイン」と言える趣向です。京都の宮中の公家、女官の間で流行した押絵はやがて諸大名の奥方によって江戸に伝えられ、町人文化の中で花開きました。

 「江戸の押絵羽子板には大きく分けてふたつあります。ひとつは女の子の初正月のお祝いに求める『見立て』と呼ばれるもので、華やかな女方を羽子板にしたものが中心です。『京鹿子娘道成寺』や『藤娘』『汐汲』といった、衣裳や小道具が絢爛豪華なものが華やかで喜ばれます」

 生まれたばかりの娘のために羽子板を求める人は、浅草寺の羽子板市でも増えてきていると言います。さらに毎年出店している鴻月さんのお店では、一尺六寸、二尺といったものだけでなく『豆羽子板』と呼ぶ全長18センチの羽子板も販売しています。

 「毎年演目を変えて、ひとつひとつ大きいものと同じように手作りしています。『毎年1本ずつ集めて40年になる』というお客さんもいらっしゃいます。嬉しいですねえ」

 鴻月さんが羽子板職人の道に入ったばかりの頃は、東京でも湯島天神や深川不動、神田明神など東京でも9カ所ほどの羽子板市があったと言います。年の瀬の大きな楽しみのひとつ。江戸の醍醐味が、歌舞伎役者の羽子板です。

 「役者の羽子板を作る職人は少なくなってきていますが、やはりこれが江戸の羽子板らしさだと思います。歌舞伎、浮世絵、羽子板は江戸の産物。当時、歌舞伎を観るのは庶民にとって最大の娯楽でしたから、年の瀬に人気役者の当たり役の羽子板を買うことも楽しみのひとつだったのではないでしょうか」

 仕事場1階のスペースは『羽子板資料館』として開放しており、2月〜9月は明治・大正・昭和の羽子板を展示し、10月〜1月には新作の、歌舞伎の役者を写した羽子板がずらりと並びます。 荒事の『暫』から、『俊寛』などの時代物、和事の『廓文章』まで、活き活きとした作品は確かに劇場の賑わいを感じさせます。

 「自分の目で芝居を観なければ、感性は磨かれません。今でも劇場に行くと毎回新しい発見があるんですよ。役者の姿や迫力はもちろん、大道具や小道具のデザインですとか、芝居を観る度に新鮮な発見をして、それを羽子板にどう活かそうか考えると、毎日が楽しいですよ」

 歌舞伎とともに江戸時代から現代まで生きてきた押絵羽子板の世界。次回は工房におじゃまして、製作過程をご紹介いたします。

西山鴻月

西山鴻月

大正10年 浅草生まれ。15歳から羽子板面相師 倉田雅生氏に師事。19歳で独立して以来、押絵羽子板の作品を作り続けている。昭和53年、ロンドンで行なわれたエリザベス女王戴冠25周年記念の日本伝統工芸展に出展。中国、フランス、アメリカなど海外で羽子板の展覧会や製作実演を多数行なう。昭和63年東京都伝統工芸士、平成3年に墨田区登録無形文化財保持者に認定。平成13年に東京都文化功労賞を受賞、平成18年には東京都名誉都民の顕彰を受けた。百貨店の美術画廊をはじめ、都内を中心に展覧会を行っている。著作『羽子板職人の四季・風のしがらみ』『江戸の技と華 押絵羽子板』。


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