筋書いまむかし その壱 筋書いまむかし その壱


 毎月の公演に合わせてつくられている歌舞伎座の筋書(公演プログラム)。観劇の手引きや記念となる筋書は、歌舞伎座が誕生した明治時代から現在まで、さまざまに形を変えながら続いています。

 この「筋書いまむかし」では、3回にわたり、歌舞伎座が開場130年を迎えた平成30(2018)年に筋書で連載した「筋書でみる歌舞伎座130年」(執筆・資料/公益財団法人松竹大谷図書館)の記事を中心に歌舞伎座の筋書の歴史を振り返り、また現在歌舞伎座の筋書をつくっている筋書編集室の目線で、今の筋書の注目ポイントや楽しみ方を紹介していきます。


文/松竹筋書編集室

目次

第1章. 「むかし」の筋書、その歴史 ~“番付”から“筋書”へ(歌舞伎座 第一期・第二期)~

第2章. 「いま」の筋書、ここに注目! ~江戸歌舞伎の風情が残る 絵看板・総連名~

第3章. 観劇の手引き ~邦楽連名~

第1章.「むかし」の筋書、その歴史 ~“番付(ばんづけ)”から“筋書(すじがき)”へ(歌舞伎座 第一期・第二期)~()


 現在の歌舞伎座は第五期になりますが、第一期の歌舞伎座ができたのは明治22(1889)年です。今回は、江戸時代の番付、そして歌舞伎座の第一期と第二期の筋書を見ていきましょう。

筋書の前身・番付(番附)

 “番付”という言葉は現在でも「長者番付」など“ランキング(順位付け)”の意味として使われますが、元々は歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)、相撲などの興行の宣伝のためにつくられた刷り物を「番付」と言いました。特に歌舞伎の番付は「芝居番付」と呼ばれ、その形式は江戸、大坂、京と場所によって、また時代によっても変化しますが、主に次の4つに分類されます。

顔見世番付…毎年旧暦11月の顔見世興行に合わせて今後1年間の出演俳優を紹介する宣伝用の刷り物。

辻番付…興行の宣伝のため、湯屋など人の集まる場所に貼り出されたもの。現在のポスターのような役割。

役割番付…辻番付に続いて出され、配役、浄瑠璃の太夫・三味線、狂言作者など詳しい情報を掲載。

絵本番付…芝居の主要場面の絵を入れた小冊子。作者が指示し、興行が始まってから絵師が実際に芝居を観て作成。
現在でいうと、月の後半に出る「舞台写真入り筋書」のようなものと言えるでしょうか。

辻番付(天保14〈1843〉年6月中村座「絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」)
大名題、役人替名(配役)、絵組(挿絵)が一枚にまとめられている。顔見世番付が出る時は辻番付は出なかった。初日が決まっていないうちに出されるものには、「近日より」という文言が入る。
(公益財団法人松竹大谷図書館所蔵)

役割番付(天明元〈1781〉年11月森田座「荘雪三吉野(さきかえせゆきのみよしの)」)
江戸では半紙3枚を綴じた冊子体で、最初に座元名、出演俳優の名前と定紋が載ることから「(もん)番付」とも呼ばれた。
(国立国会図書館所蔵)

絵本番付(嘉永7〈1854〉年5月中村座「仮名手本忠臣蔵」)
元禄期に出されていた絵と物語が入った「絵入狂言本」から変化したもので、徐々に文字が減り、舞台面の登場人物を並べた名場面集のような体裁になっていった。
(国立国会図書館所蔵)

 番付は辻番付⇒役割番付⇒絵本番付の順に出されました。役割番付や絵本番付は劇場や芝居茶屋で販売されていたので、これらが筋書の前身と言えるでしょう。ちなみに、関西では今でも筋書のことを「番附」と呼んでいます。

歌舞伎座第一期の筋書

 明治時代になり、文明開化によって西洋文化が日本にもたらされるようになると、歌舞伎の世界も新しい時代に合わせた演劇として改革しようとする動きが起こりました。そうしたなか、明治22年11月21日に第一期の歌舞伎座が開場しました。創設者の福地源一郎(桜痴(おうち))はこの新しい劇場の設立にあたり、番付なども新しい形式にする方針を打ち出しました。

 この記事では歌舞伎座の幕開けとなる初興行のときの「辻番付」(上段右)が掲載されています。江戸時代の辻番付では、配役は俳優の位順に並んでいましたが、歌舞伎座の辻番付では場面ごとに並んでいます。

 続いて記事下段の画像は、明治24(1891)年6月興行の「絵本筋書」(右)と「絵本役割」(左)です。「絵本筋書」は配役と演目の詳細なあらすじを記した冊子です。「絵本役割」は各場面の挿絵とともに配役を記したもので、江戸時代の役割番付と絵本番付が一体化したものです。これが現在の筋書の元ととれます。

 新しい時代に合わせた変革を試みる一方で、芝居茶屋など、江戸時代から続く風習も依然として残っていた時代に誕生した第一期の歌舞伎座は、明治44(1911)年7月の公演を最後に改修工事のため休館、第二期へと続いていきます。

この頃の歌舞伎座近くの芝居茶屋
芝居茶屋とは、歌舞伎の劇場に隣接し、観客のために席の確保や案内、食事などの世話をした茶屋のこと。江戸時代から続く芝居茶屋は明治時代を経て、大正末から昭和初期に消滅するまで歌舞伎文化を支えた。

第二期の筋書

 第二期の歌舞伎座は、明治44年10月に落成、翌11月に初興行が行われました。開場初の興行は「五代目中村歌右衛門襲名披露」です。ちなみに、歌舞伎座で椅子席が登場するのは第三期からで、第二期はまだ升席です。この頃の筋書の表紙にも升席がデザインされたものがあり、当時の客席の様子がうかがえます(記事右上)。盛大に幕を開けた第二期の歌舞伎座ですが、大正10(1921)年10月30日早朝、漏電によって全焼してしまいます。わずか10年間という短い運命でした。

 しかし、この第二期の間に歌舞伎座にとって節目となる出来事がありました。大正2(1913)年に松竹合名社(松竹株式会社の前身)による最初の歌舞伎座興行が行われ、翌大正3(1914)年より歌舞伎座が松竹合名社の直営劇場となりました。記事の右下(青の丸印)、歌舞伎座の座紋である鳳凰丸があしらわれた表紙が、松竹経営による最初の興行(大正2年10月)の時の筋書です。表紙にはその興行の演目が並んでおり、序幕は平木白星作『象引』、一番目は小山内薫作『忠貞奇譚ちゅうていきだん』(歌劇『フィデリオ』の翻案)、中幕が『絵本太功記』、二番目は榎本虎彦作『裏表うらおもてこころの曲金さしがね』、大切おおぎりが『紅葉狩』でした。この興行は好評で、大入おおいり続きだったようです。この頃は文芸作家らによって書き下ろされ、文学性をより追求した“新歌舞伎”がさかんにつくられた時代でした。

時代を映す“広告”

 筋書の中でも当時の風俗を如実に表しているのが広告ではないでしょうか。歌舞伎座の筋書にも第一期から広告が掲載されています。この記事では、明治期の広告を中心に大正・昭和期の広告を紹介しています。

 その最初期(明治30年代)の広告が記事中段の三井呉服店(現在の三越百貨店)です。「今日はお芝居 明日は是非とも三越へ」などのキャッチコピーや、歌舞伎の登場人物を描いたビジュアルなど歌舞伎座の観客を意識したデザインになっています。

 記事の下段にはミツワ石鹸の広告が並んでいますが、左下の一際鮮やかな広告(丸印)は、昭和6(1931)年6月の筋書に掲載されたものです。表紙と裏表紙を全面に使っており、公演演目の『道成寺』や『河庄』の絵が配されています。その月の公演に合わせた広告とは贅沢ですね。

 現在の筋書でも、歌舞伎を応援してくださっている企業をはじめ、銀座に店を構える企業などさまざまな広告が掲載されています。筋書の広告には、時代とともに発展していく銀座の姿が映っているのかもしれません。

※松竹大谷図書館では、所蔵資料の整理・活用のためのクラウドファンディングを行っています。2020年の事業の詳細につきましては、こちらをご覧ください(2020年の支援の募集は終了しました)