筋書いまむかし その弐 筋書いまむかし その弐


 毎月の公演に合わせてつくられている歌舞伎座の筋書(公演プログラム)。観劇の手引きや記念となる筋書は、歌舞伎座が誕生した明治時代から現在まで、さまざまに形を変えながら続いています。

 この「筋書いまむかし」では、3回にわたり、歌舞伎座が開場130年を迎えた平成30(2018)年に筋書で連載した「筋書でみる歌舞伎座130年」(執筆・資料/公益財団法人松竹大谷図書館)の記事を中心に歌舞伎座の筋書の歴史を振り返り、また現在歌舞伎座の筋書を作っている筋書編集室の目線で、今の筋書の注目ポイントや楽しみ方を紹介していきます。


文/松竹筋書編集室

目次

第1章. 「むかし」の筋書、その歴史 ~歌舞伎座 第三期~

第2章. 「いま」の筋書、ここに注目! ~舞台の感動が甦る 舞台写真~

第3章. 観劇の手引き ~上演記録~

第1章.「むかし」の筋書、その歴史 ~歌舞伎座 第三期


 前回は、歌舞伎座第一期、第二期の時代の筋書を紹介しました。今回は第三期の筋書をご紹介します。

第三期時代の筋書

 第三期の歌舞伎座は関東大震災の翌年である大正13 (1924)年12月に竣工、翌14(1925)年1月に開場式、そして初興行が執り行われました。この記事の上段には開場当時の写真と、記念すべき初興行の筋書の写真(丸印)を載せています。歌舞伎座の外観写真と華やかなデザインの表紙で、新しい歌舞伎座の誕生を祝っています。このときの演目は、一番目は岡本綺堂作、松居松翁(しょうおう)舞台監督による新作『家康入国』、竹松改め七代目市村家橘(後の十六世市村羽左衛門)の披露狂言『連獅子』、中幕は『玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)』、二番目に『曾我綉俠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)』でした。『家康入国』は、大江戸の草創期と東京の震災復興にちなんだ脚本でした。

 第三期の歌舞伎座が丸2年を迎えようとしていた大正15(1926)年12月25日に大正天皇が崩御、年号が昭和と改元されました。

 この時期に始まり、戦争によって中断はあったものの現在まで受け継がれているのが、明治時代を代表する名優、九世市川團十郎と五世尾上菊五郎の功績を顕彰する「團菊祭」です。記事の下段では、最初の團菊祭である昭和11(1936)年4月興行の筋書などを紹介しています。

受難の時代、そのとき歌舞伎座は…

 第三期の歌舞伎座にとって最大の出来事は、やはり戦争でしょう。昭和12(1937)年、盧溝橋事件に端を発する日中戦争、そして昭和16(1941)年からの太平洋戦争で、日本は受難の時代へと突入します。戦争という未曾有の災禍のなかで歌舞伎座はどのような状況だったのか、当時の筋書から見ていきましょう。

 日中戦争が始まってからも歌舞伎座の興行は継続的に行われていました。この記事のうち、左上の昭和16年12月の筋書(丸印)にご注目ください。これは、当時劇場内に設けられた兵士へ送る慰安品の売場を紹介する告知ページで、この頃の筋書には何度か登場します。ここで商品を購入し、送り先を書くと、歌舞伎座がまとめて陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)に送り、そこから各戦地へと送られるようになっていました。また、記事下段では昭和13(1938)年~16年の筋書に掲載された国威発揚や倹約のスローガン、戦時国債の購入を呼びかける広告などを紹介しています。

 昭和13年からは、夕方開演の本興行に加え、マチネー(昼興行)も開催されるようになりました。

 昭和16年になると、興行形態にも変化が生じます。それまで月ごとに興行が行われていましたが、この年から、50日間など2カ月にわたる長期興行が行われるようになります。物資の欠乏が深刻になるなか、衣裳や小道具などの節約、経営の合理化のための対策でした。また、この年から昼夜二部制の形式をとる興行が行われるようになります。現在の歌舞伎座では一般的になった昼夜二部制という興行形態は、戦時下に生み出されたのです。この舞台写真は、そうした状況にあった昭和16年3月興行「恒例團菊祭 昼夜二部興行」の『勧進帳』のときのものです。客席はお客様でぎっしり、熱気にあふれた光景ですね。

昭和16(1941)年3月歌舞伎座『勧進帳』
名優七世松本幸四郎が武蔵坊弁慶を“一世一代(生涯でその役を演じ納める意)”と謳い勤めた興行は大好評となり、日延べ公演も行われ3月1日~4月6日の37日間興行となった。

戦局の悪化、そして第三期歌舞伎座の終焉

 この記事では、さらに戦況が厳しくなってきた頃の筋書を紹介しています。昭和17(1942)年以降は、空襲警報により上演が中止となった際の払い戻しについての案内や、空襲に備えた待避所の見取図などが筋書に掲載されるようになりました。筋書は観劇の手引としてだけでなく、お客様の「安心・安全」のための情報発信の役割も担っていたことがわかります。実際、昭和17年4月18日には、『一谷(いちのたに)嫩軍記(ふたばぐんき) 組打』の上演中に空襲警報が発令され、以後の演目は中止となる事態も起きました。

 記事左下(丸印)には、戦中最後の筋書となった昭和19(1944)年2月「昼夜二部制大歌舞伎」の筋書を掲載しています。この興行の千穐楽目前の2月25日に「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、その第七項「高級享楽の停止」に基づき、歌舞伎座をはじめ全国の大劇場は3月より一斉休場することとなりました。その後、歌舞伎座は官公署などに賃貸される東京都の臨時公会堂に指定され、8月以降は慰安公演などの短期の公演が行われました。そのため、歌舞伎座における本興行はこの2月をもって中断することとなったのです。

 そして昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲、3月14日の大阪大空襲と日本全土が焦土と化すなか、5月25日夜から26日未明、東京を中心とした大規模な空襲によって、ついに歌舞伎座は外壁など一部を残して焼失しました。

 戦争という最大の困難に直面した歌舞伎座の再開は、8月15日の終戦を経て、昭和26(1951)年の第四期の開場を待つことになります。

休場中の歌舞伎座
絵看板を飾る場所には、「空襲必至 備へあれば 憂なし」「債権の 力で築け 大東亜」などのスローガンが掲げられている。

 令和2(2020)年、歌舞伎座は新型コロナウイルス感染症による影響もあり3~7月の5カ月間の休場を経て、8月には初めてとなる一演目ごとの四部制興行をもって公演を再開しました。こうして筋書を振り返ると、舞台の幕を開けることが困難なときにも最良の舞台を届けようと工夫してきた当時の様子がうかがえます。筋書には、苦しい状況においても歌舞伎の舞台が人々のエネルギーとなると信じ、興行に取り組んできた“証”が刻まれているのです。

※松竹大谷図書館では、所蔵資料の整理・活用のためのクラウドファンディングを行っています。2020年の事業の詳細につきましては、こちらをご覧ください