歌舞伎いろは

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能代凧 写真提供:能代市観光協会
 「文」のシンボルが菅原道真なら「武」は坂上田村麻呂と言われ、道真に縁(ゆかり)ある天神様が全国各地にあるように、田村麻呂に縁ある社寺も全国各地に見られます。特に東北地方には田村麻呂の伝説が色濃く残っているところがたくさんあります。
 というのも、田村麻呂が桓武天皇のもとで、朝廷にはむかう東北地方の勢力の鎮圧に活躍したから。時代は桓武天皇が都を平安京に移した頃、つまり平安時代のはじめごろにあたります。この東北の勢力というのは奥羽の蝦夷(えみし)、そしてその勢力を率いて戦っていたのがアテルイです。

ねぶたは講談や歌舞伎、伝説などから想を得て作られる。
 アテルイというと、2002年8月新橋演舞場で上演された『アテルイ』をご覧になった方も多いでしょう。劇団☆新感線を主宰しているいのうえひでのりが演出、アテルイを市川染五郎、坂上田村麻呂を堤真一が演じ大変な人気を博して、第2回朝日舞台芸術賞・秋元松代賞を受賞しました。では、歌舞伎で坂上田村麻呂が登場するのは…。文のシンボル・菅原道真が義太夫三大名作のひとつ『菅原伝授手習鑑』と外題にも戴かれているのに対し、田村麻呂の名はあまり聞きませんね。この話題については、来月お話ししましょう。

 さて、東北地方でさまざまな伝説を残している田村麻呂は、今回ご紹介している旅の出発点、能代の名物「能代凧」の起源にも登場します。それが「東北遠征の際に、田村麻呂が能代港に入稿する時の目印に凧を使用した」という説。起源は諸説あって「宴で船乗りが舌を出しおどけた顔を描いて腹踊りをしたところ、船頭に『べらぼうめ』と叱られたが、船主は面白がり、その絵で凧を作らせた」という説などもあります。凧の絵柄は左上の写真のような勇ましい武者絵や歌舞伎絵も多いようですが、地元のお酒のラベルなどにも使われている舌を出した「べらぼう」の絵は、まさにこの逸話からとられたものです。
「田村麿賞」を受賞したねぶたの写真。「田村麿賞」は昭和37年に制定され平成7年に「ねぶた大賞」と名称変更された。
 田村麻呂がその「起源」に登場するのは能代凧だけではありません。青森のねぶた祭りの起源にも、田村麻呂に縁ある「説」が存在します。時は平安のはじめ、場所は陸奥の蝦夷征討の戦場。「田村麻呂が敵を油断させておびき寄せるために、笛や太鼓ではやし立てた」という伝説です。平成7年に「ねぶた大賞」と名称変更されるまで、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞は「田村麿賞」※とされていました。
※田村麻呂は「田村麿」とも表記されます。「田村麿賞」の名称変更の理由として、青森ねぶたの公式ホームページには<坂上田村麿が蝦夷征伐のため現在の青森県城に遠征した史実やその際にねぶたを用いたことが立証できないこと、田村麿と蝦夷征伐を結びつけてのネーミングは、民族の人権上からふさわしくないこと、国の重要無形民俗文化財指定にあたっても「ねむり流し」の習俗と明記されていること。また、市民意識の変革など、各界各層の意見、世論をふまえた結果、平成七年度より、青森ねぶたの最高賞は「ねぶた大賞」となりました。(抜粋)>と記されています。
文/栄木恵子(編集部)

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