Grand Kabuki History (前編)~歌舞伎アウトバウンド100周年に向けて~ Grand Kabuki History (前編)~歌舞伎アウトバウンド100周年に向けて~

旅する大使館

 歌舞伎の海外公演は昭和36(1961)年ソ連、昭和39(1964)年ハワイと続き、昭和40(1965)年には欧州への進出を果たし、以後、回を重ね訪問地を増やしていきます。

 しかし、幕を開けるまでは常に困難と試練の連続でした。開幕寸前まで荷物が届かなかったことや、事前に細かい指示を出していたにも関わらず、劇場側で “花道”という舞台機構が想像できず、花道分のスペースを客席にしたままチケットを売っていたこともあります。勝手のわからぬ幕や大道具、着物という扱ったことのない衣裳、見慣れぬ小道具などに面食らう現地スタッフとも、理解を深めながら協力して毎回、期待以上の成果を上げていきました。平成31(2019)年までの海外公演は80回近くにおよび、訪れた国も南極大陸以外の五大陸38カ国、110都市を超えます。そのなかには昭和61(1986)年6月に予定されていた公演が、同年4月に起きたチェルノブイリ原発事故により中止を余儀なくされながらも、関係者の強い熱意により翌年の昭和62(1987)年に実現に至ったソ連公演もあります。

 平成元(1989)年の訪欧公演ではベルギーのブリュッセル、東ドイツの東ベルリン、ドレスデン、オーストリアのウィーンを訪問しましたが、訪れたわずか1カ月後にベルリンの壁が崩壊するという歴史的な事件が起こっています。世界最大規模を誇るメトロポリタン・オペラハウスで公演した昭和57(1982)年のアメリカ公演では、前年大統領に就任したレーガン大統領をホワイトハウスに表敬訪問するひと幕もありました。

 昭和53(1978)年の訪豪歌舞伎公演の際、シドニー・モーニング・ヘラルド紙から、日本文化を紹介してまわるという意味で「歌舞伎は旅する大使館」と賛辞されましたが、歌舞伎を通じて相互の文化の理解を深め、外交、民間双方の関係において友好を築き上げていった功績はまさに“大使館”と呼ぶにふさわしいものでした。

昭和36(1961)年ソ連公演ポスター
昭和39(1964)年ハワイ公演、出発時の記念撮影
昭和54(1979)年アメリカ公演、This Week誌の表紙


平成2(1990)年ヨーロッパ公演、パリ街頭の広告塔
平成9(1997)年フランス公演プログラム

古典、そしてエンタテインメントとしての歌舞伎へ

 言語の壁のある外国での上演では、『連獅子』や『藤娘』、『身替座禅』など、舞踊やコミカルな演目も喜ばれますが、一方で『仮名手本忠臣蔵』や『俊寛』など、ドラマ性の高い演目も上演され、高い評価を得ています。六世歌右衛門扮する母親が愛児を探し求める、内面性を重視した舞踊『隅田川』にも大きな拍手が寄せられました。これにはGHQ占領下から歌舞伎の存続に心を砕いてくれた、マッカーサーの副官兼通訳のフォービアン・バワーズ氏はじめ、同時解説などで各国での理解を深めてくれた関係者の努力も大きいと思われますが、歌舞伎が物珍しさだけではなく、現代にも生き続ける演劇として理解され、評価されたからでしょう。

  近年では、本格的なグランド・カブキ公演以外にも、歌舞伎俳優が個人的に企画した小規模な海外公演や、大学などに招かれて行うセミナー、レセプションなどイベントへの参加も増えてきました。“KABUKI”が広く認知されるにつれ、“旅する大使館”としての役割に加え、エンタテインメントとしての評価も求められるようになってきています。平成16(2004)年、十八世中村勘三郎は国内で始めた移動式仮設劇場「平成中村座」を劇場ごとニューヨークに持ち込みました。 

 また平成21(2009)年にはロンドンで、歌舞伎の様式を用いたシェイクスピアの翻案公演、蜷川幸雄演出『NINAGAWA十二夜』が上演されるなど、さまざまな試みがなされています。初回のソ連公演以来、一貫して変わらなかったのは、「海外であろうとも、あるがままの歌舞伎を演じればよい」という姿勢です。それは、松竹創業者の一人である大谷竹次郎の、海外向けにアレンジすることなく、国内と変わらない質の高い歌舞伎を海外で上演し、本当の魅力を伝えたい、という強い意志でした。初の海外公演から、もうすぐ100年。今後も歌舞伎海外公演が、“大使館”としての役割を果たすとともに、これまでの日本から発信する新たな舞台芸術を生み出す場ともなるように期待したいと思います。


 後編では、歌舞伎俳優をはじめ、海外公演をつくりあげてきた方々のお話をお届けします。さまざまなエピソードや、公演にかける思いに、どうぞご期待ください。

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